雨は、厄介である。 降りすぎると、土中の根を腐らせ、時には洪水をも引き起こすし、 降らないと、土地は干からび、砂漠と化す。 After
the rain 「三上(みかみ)さん!だめっ!!」 叫ぶと同時、佐藤は刃物を振り上げた女に向かって飛び掛っていた。 そのまま女ごと倒れこみ、彼女の手から離れた刃物が、カラン、と乾いた音を立てて地へと落ちる。 今にも女に刺されそうになっていた男は、血の気の引いた顔でヘナヘナとその場に座り込んだ。 少し遅れてその現場にたどり着いた高木は、呆然とその有様を見回した。 ―――佐藤さんは、このことを言っていたのか……。 事は昨日に遡る。 今しがた刃物を掴んでいた女、「三上
洋子(ようこ)」は、この数ヶ月、しつこいストーカーに付きまとわれていた。そのストーカーというのが、今、彼女に刺されそうになっていた男である。 この男は昨日、三上が交際していた男性、「上田
春樹(うえだはるき)」を刺殺した。“僕から洋子を奪った男”として……。 米花警察署で逮捕されたその男を本庁へと引き取りにくることになったのが、高木と佐藤だった。 そして、その連行の手続きの最中に、佐藤がふと零した言葉。 「彼女……三上さん、被疑者が今日本庁に移されること、知ってるのかしら?」 「ああ。それなら、ここの署の方が今朝電話で彼女に伝えたと言ってましたよ」 高木が答えると、佐藤は少し苦い顔をした。 「そう……。本当は、本庁に完全に移してから彼女に連絡した方がよかったかもしれないけど……そういうわけにはいかないものね……」 「え?」 彼女の言いたいことが分からず、高木は思わず聞き返した。が、佐藤はそれ以上何も答えなかったので、高木もそれ以上は何も聞かなかった。 その後、男を連れて米花警察署を出ようと、高木が車をまわしに離れた時、刃物を手にした三上が佐藤と男の前に現れ、冒頭の事件へと繋がった……というわけだ。 佐藤に押さえ込まれたままの三上が、それでも必死に地に落ちたままの刃物へと手を伸ばすのを見て、高木は慌てて駆け寄った。 「何するのよっ!私の邪魔しないで!!」 凶器を拾い上げた高木を、女が涙目でキッ、と睨みつける。 「何言ってるのよ、三上さん!あなた、自分が今何をしようとしていたか分かってるの?!」 「分かってやってるに決まってるでしょっ?!」 諌めるような佐藤の口調にも怯むことなく、女はヒステリックに叫んだ。 「この男のせいで!こんな奴のせいで!春樹は死んじゃったのよっ?! あなたたちに私のこの気持ちが分かる?!」 投げつけられた言葉に、思わず高木は身を硬くした。 今、この状況で、佐藤があの事件を思い出さないはずがないから。 今、誰よりも三上の気持ちが分かり、辛いのは……彼女だから。 しかし、彼女の代わりにと高木が口を開くよりも早く。 「ええ。そうね……」 押さえ込んでいた身体を女からゆっくりと離しながら、佐藤が静かに言った。 「私たちには分からないわ。あなたの気持ち……」 ―――佐藤さん……。 淡々と告げるその表情から、彼女が何を考えているのかは読み取れなかった。 けれど、脳裏にかつての彼女の言葉が浮かぶ。 『刑事は仕事に私情を挟んじゃだめよ。いかなる場合も、公正に警察職務を執行しなさい。』 あまりにもあっさりと答えを返された三上は、呆然と佐藤を見詰め返すしかできないようだった。 そんな彼女の手を引いて起き上がらせると、佐藤は少し微笑む。 「確かに、恨むことは簡単よ。でも、それでも残された人は、生きなきゃいけないの。
上田さんだって、あなたに仇(かたき)をとって欲しいなんて……人を殺して欲しいだなんて、思わないはずよ。違う?」 佐藤にゆっくりとした口調で尋ねられた三上は、暫(しばら)くの間黙り込み、やがてふるふると首を横に振った。 その目には既に、涙が一杯に溜まっていて。 「……違わない。彼は、人殺しなんて望まない。あの人は、優しい人だから……」 とうとう耐えられなくなったのか、三上はそこまで言うと、佐藤の体に顔を押し付け泣き始めた。 「本当に……優しい人だったの。……本当に、大切な人だったの……」 「大丈夫よ……」 嗚咽の度に揺れるその背を、佐藤がそっと抱きしめる。 「大丈夫。 ……別れてしまっても、その人の一部は、あなたの中にちゃんと残るわ。あなたが忘れない限り……」 小さな嗚咽と、穏やかな声。 高木はその遣り取りを、身動き一つせずに見守っていた。 が、やがて一つ大きく息を吸い込み、吐き出すと、本来の職務へ戻るべく、未だ呆然としゃがみ込んだままの男へ歩み寄ったのだった。 「被疑者の男は一応、さっきの事件の参考人として、もう暫くこの署に残ることになりました。
三上さんも事情聴取などがあるので、明後日もう一度ここへ二人を引き取りに来て欲しいそうです」 「そう……」 米花警察署の廊下を出口へと向かって歩きながら、高木が今後のことについて話す。佐藤は頷きこそしたが、その説明を頭半分で聞いていた。 脳裏には、さっきの自分の台詞が蘇る。 『恨むことは簡単よ。でも、それでも残された人は、生きなきゃいけないの』 自分のことを棚に上げ、よくもあんなことが言えたものだ、と自嘲気味に笑む。 彼女に向けて発した言葉はどれも、自分自身に向けてのものでもあった。 仕事上、“あなたの気持ちはわからない”と答えたけれど。本当は痛いほどに理解できた。自分もかつて、大切な人を失い、その犯人へ一瞬とはいえ、殺意を抱いたのだから。 だからこそ、彼女の今後を考えると胸が痛んだ。 自分がそうであったように、彼女はこれからずっと、このことを引きずって生きていくのだろう。そして、“そこ”から這い上がるには、とても一人では無理だ。 佐藤に高木や由美たちがいたように、彼女にはいるだろうか?“そこ”から引っ張り上げてくれる“誰か”が。 そこまで考えて、彼女は思考を止めた。 じんわりと目頭が熱くなっていくのを感じたのだ。 ―――やだ。情けな……。 「ごめん、高木くん」 突然動かしていた足を止め、佐藤は言った。 「先に、本庁に行っててくれない?」 「え?」 「私、ちょっと行く所があるの」 同じく足を止め、驚いたように聞き返してくる後輩に口早に告げると、目を合わせることなく走り出す。 「それじゃ」 「佐藤さん!」と自分の名を呼ばれるのが聞こえたが、聞こえないふりをした。 これ以上一緒にいると、まずい。 署から出る頃には、目に溜まった水により、佐藤の視界の歪みは限界に達していた。 そのまま玄関を出ようとして、彼女は一瞬、足を止める。 外は、いつの間にか雨が降り出していた。それ程激しくない、今のぐちゃぐちゃな佐藤の心境とは裏腹な、優しい雨。 ―――丁度いいわね。 ふ、と自嘲気味に笑むと、佐藤はそのまま屋外へと出、雨の中を歩き出した。 傘を持っていなかったが、むしろ都合が良かった。雨が、今のこのぐちゃぐちゃな気持ちをどこかへ洗い流してくれるような……そんな気がして。 「佐藤さん!」 突然名前を呼ばれ、思わず足を止めた。 パシャパシャと音を立てながら、誰かが近付いてくる。 もちろん、振り返らずともそれが誰だかは分かった。 「……どうしたの。何か言い忘れたことでもあった?」 自分の傘を差し出してくる後輩に、背を向けたまま尋ねる。 「い、いえ。 ただ、雨、が、降ってることに、気付いて……、そういえば、佐藤さん、傘、持ってなかった、なぁと……」 余程急いで走ってきてくれたらしい。はぁはぁ息を切らせつつ、高木が答える。 ―――そんなことで……走ってきてくれたの? そんなに息が切れる程に。 私なんかのために。 「……そうよね。 そういう人よね、高木君って」 「え?」 佐藤の顔から、思わずふ、と小さな笑みが零れた。 改めて思う。自分があの暗闇から這い上がれたのは……、もう一度、特定の誰かを大切な人だと思えるようになったのは……、こんな彼の優しさのお陰なのだと。 そう思うと、視界がますますぼやけ。ついに耐えられなくなったそれは、ゆっくりと佐藤の頬を伝って落ちた。 瞬間、傘を差し出していた高木の手が、ピクリ、と動く。 「佐藤さん……泣いてるんですか……?」 遠慮がちに訊いてくるその声に、佐藤は心の内で小さく笑った。 ―――ほんと、雨が降っていてよかった……。 「そんなわけないでしょ?雨よ、あ・め」 いつもの調子と笑顔をつくり、佐藤は答えた。 これが、今できる精一杯の、強がり。 高木は一瞬、「え?」というような顔をしたが、すぐに佐藤の胸の内を察したらしく、「そうですか」とだけ答えた。 「それじゃあ僕はそろそろ本庁に戻りますけど……、佐藤さん、本当にいいんですね?何なら、途中まででも用事のある所へ乗せていきましょうか?」 「ううん、いいわ。歩いていく」 佐藤は首を振った。 今の言葉から察するに、高木はおそらく、用事なんてその場しのぎの嘘だと気付いているのだろう。そして、そのうえで暗に言ってくれている。“せめて本庁の途中まででも、車で乗せていきますよ”
と。 けれど、これ以上彼の優しさに甘えすぎてはいけない。 「本当に……大丈夫だから。気にしないで」 心配させまいと佐藤が無理矢理笑うと、高木は諦めたように、ふぅ、と一つ息を吐き。 「分かりました。 じゃあ、この傘使って下さい」 自分の持っていた傘を、佐藤の手に握らせた。 「え?でもそれじゃ高木君が……」 「平気ですよ。僕が濡れるのは、駐車場までのほんの一・二分ですから。
それに、“犯人は刑事の体調なんて考えてくれない”んでしょう?雨に濡れっぱなしじゃ、風邪ひいちゃいますよ?」 笑顔でそう言ってくる高木に、佐藤は返す言葉が見つからなかった。 つい先ほど、彼の優しさに甘えすぎないようにと思ったばかりなのに、こんな風に常日頃自分が言っている言葉で切り返されては、断れないではないか。 ―――ほんと、妙なとこズルいわよね、高木君ってば…。 「……分かった。それじゃあ、有難く使わせてもらうわ」 「ええ、どうぞ。返すのは、いつでも構いませんから」 そう言うと、高木は佐藤から一歩離れる。 「それじゃあ、お疲れ様でした」 「ええ。お疲れ様」 軽く敬礼をしてくる後輩にそう答えた佐藤だったが、くるりと背を向け走り出そうとする彼を見て、ふとあることを思い出す。 「あっ、ねぇ!高木君!」 「え?は、はい?」 「事件の報告書、私の分も残してていいんだからね。 一人でやっておこうだなんて、かっこつけるようなこと考えちゃだめよ?」 念のためにと釘を刺してやると、案の定、高木は一瞬驚いたような顔をした。やはり、図星だったらしい。 高木は罰の悪そうな笑みを浮かべると、 「はい。分かりました」 と答え、再び雨の中を走り出した。 その背を見送る佐藤は、ふ、と小さく微笑み。 「……ありがとう、高木君……」 ―――いつも、いつも……。 誰にも聞こえないような小さな声で呟くと、彼女もまた回れ右をし、雨の中を歩き出した。 雨は、厄介である。 降りすぎると、土中の根を腐らせ、時には洪水をも引き起こすし、 降らないと、土地は干からび、砂漠と化す。 けれど、忘れてならないことがある。 “どんな雨もいつかは必ず止む”
。 そして、そんな雨の後には……。 電車を降りて駅を出ると、雨はすっかり上がっていた。 「結局、米花駅までしか使わなかったわね」 後輩から借りた傘を巻きながら、佐藤は小さく苦笑する。 ―――さて。急いで本庁に戻らなくちゃ。 まだまだやることはたくさんある。
高木も頷きこそしたが、放っておけばやはり、佐藤の分もやりかねない。 歩き出そうと顔を上げた彼女は、思わず、あっ、と声を上げた。 「虹……」 佐藤の見つめる先――青く晴れた空には、薄っすらと虹が出ていた。 「きれい……」 偶然空を見上げなければ気付かなかったであろう、透けるような虹。 それに気付けたことが、何だかとても幸運なことのように思えて。 ―――
……雨の日も、結構捨てたもんじゃないわね。 「よし!」 グッ、と気合を入れるように小さく拳を握ると、佐藤は空から前方へと視線を戻し、本庁に向かって歩き出した。 大丈夫。本庁に着く頃にはきっと、私は元の笑顔で笑えるだろう。 そう。どんな雨の日も、いつかは晴れに変わるように……。 |
あとがき こちらも「Pledge」同様、以前「W’s
Cafe」様の小説投稿コーナーに投稿させていただいていた話です。(現在は閉鎖されています。本当にお疲れ様でした。) 「Pledge」で、投稿の場所を私ひとりで3つ(前・中・後)も使ってしまったため、この話を書くときは「短く〜、短く〜。」と呪文のように念じながら書いた覚えがあります。(笑) 最近は自粛している、事件もの。当時は結構書いていた気がします。しかも自分で書いておいてなんですが、結構事件内容がひどいんですよね…。(苦笑) 事件内容は大抵、話の流れ上に合わせて考えるので、結局カットも変更もできないのですが、やっぱりもっと明るい話が書けるようになりたいなぁ…と切に思ったものです。 |