All right

 

 

 穏やかな波に揺られながら、一艘の船が、ゆっくりゆっくり、小さくなっていく。乗っているのは、この村の恩人たちと、たった一人の妹。後甲板に立ったままでいるはずのその姿は、もう肉眼では判別できなかった。

 見送っていた者たちも、一人、また一人と立ち上がり、村へと引き返し始める。当然だろう、村の復興作業はまだまだ残っている。妹の姿が見えなくなるまで、皆がずっとこの場で見送っていてくれていただけでも、姉としては充分に嬉しかった。それにきっと妹からだって、もうこちらの姿は見えていないだろう。この場を立ち去っても、何の問題もない。

 頭ではそう思いながらも、ノジコは何故だか立ち上がる気になれなかった。そしてそれは、隣に座ったままでいる男も同じらしい。

「ねぇ、ゲンさん」

 呟けば、縫い傷だらけの顔が海からノジコへと向いた。その頭にはもう、見慣れた風車は無い。

「約束って?」

「うん?」

「さっき言ってたじゃない、あの麦わらの子に」

 出港していく船。その船の船長である少年に向って、ゲンゾウが叫んだのだ。

 約束を忘れるな、と。

「あぁ、あれか」

 思い出したように小さく笑い、ゲンゾウが再び海を眺めた。つられるように、ノジコもその視線の先を追う。船はもう、豆粒大になっていた。

「あのゴムの若僧に約束させた。ナミの笑顔を守れと。もしそれを奪うようなことがあれば、私があいつの命を取りにいくとも言った」

「それはまた、難しい約束をさせたもんだね」

 ノジコは思わず苦笑した。

 その者自身の身を守ることも、充分難しいことだけれど。ゲンゾウの突き付けた約束は、ナミの身の無事は大前提、その上で更に、ナミが笑っていなければならないのだ。

 笑顔を守るとは、そういうことだ。

「何だ、不満でもあったか?」

 どこかニヤリとした顔で、ゲンゾウが覗き込んでくる。だからノジコも、軽く肩を竦めながら笑ってみせた。

「まさか。とんでもない」

 

 大切な妹を預けるには、この上ない最高の条件だ。

 

 

 

 軟風が、髪を揺らしてすり抜けていく。陽光を反射して光る波の向こうには、ぼんやりとした島影が一つ。何とか見えていた人の姿は、とうとう視認できなくなってしまった。

 ナミは大きく一つ、息を吸う。もう、しばらくは吸うことがないであろう故郷の周りの空気を肺一杯に取り込むと、代わりに汚れた二酸化炭素を吐きだした。そしてそのまま、踵を返す。

 仲間たちは既に、それぞれの動きを始めたらしい。後甲板の階段を下りていると、ラウンジの方から、ウソップの熱弁とサンジのツッコミ、そして軽快な包丁の音が聞こえてきた。閉じた扉から微かに漏れ聞こえてくるそれらを背に、更にもう一つの階段を下りる。そのまま、メインマストに凭れて眠るゾロの横を通り抜け、今度は前甲板へと続く階段を上がった。

「ルフィ」

 呼びかければ、船首の羊に座り込んでいた麦わら帽子が振り返る。あのアーロンを倒したとは到底思えない、何がそんなに嬉しいのかとツッコミたくなるような、無邪気な子供の笑顔。

「ん?何だ」

「約束って?」

「んん?」

 笑顔を引っ込め、ルフィが小首を傾げる。麦わら帽から覗く黒髪が、微かに揺れた。

「さっき、ゲンさんに言われてたじゃない」

「げんさん?」

「ほら、風車の」

 どうにもこの船長は、他者の名前を覚えるのが苦手らしい。内心苦笑しながら、最も特徴的であろう言葉を口にすれば、「あぁ!」とルフィが一つ手を打った。

「あのイカした風車のおっさんかぁ。おう、約束したぞ」

「何を約束したの?」

 ナミはさっきから気になっていた。あの出港の瞬間に叫んだ、ゲンゾウの言葉。

 ルフィは何も叫び返さなかったけれど、ゲンゾウが満足そうな顔をしたのを見るに、きっと何かしら是の反応を返したのだろう。声には出さずに。

 ルフィは体の向きを完全にナミに向けると、腕組みをして暫し唸った。そしてふと、顔を上げる。

「ナミ」

「何?」

「お前今、楽しいか?」

 実に唐突だった。ナミの質問に対する答えですらない。だが、ナミは言われるまま考えてみた。

 ようやく叶った念願。憎きアーロンはアーロンパークと共に消え、村の皆の生きて耐える戦いも終わった。自分自身も、自由をようやく手に入れた。

「そうね。やっと夢に向かって動き出せる。お金だって、今度は私自身のために稼げる」

 どれだけ願ったかしれない、自由。それが今、眼の前にある。

 そして――。

 

「クソふざけんなぁ!!」

「うっぎゃあぁぁぁー!」

 扉の開く派手な音に振り返れば、ラウンジから奇麗な放物線を描いて、長い鼻が一つ飛んでいった。それが見事に、マストの下で鼾をかいていた男へと落下する。「ぐふぅ」とも「げふっ」ともつかぬ呻き声を上げ、腹巻の男も覚醒した。

「ウソップ!てめ、何しやがる!?」

「ちょ、ちょっと待てゾロ!こりゃサンジが」

「ぎゃーぎゃーうるせぇぞ、お前ら」

「何澄ました顔してんだ!?元はと言えばお前が蹴り飛ばすからだろーが、この暴力コック!」

「何だ、元凶はお前か、アホコック」

「んだと、お前ら!」

 子供みたいな遣り取りを、三人の男が本気で始める。それこそ、サンジの言うようにぎゃーぎゃーと騒がしく。

 後ろから、ケタケタとルフィの笑う声が降ってきた。

「ほんっとおもしれぇなぁ、あいつら」

 

 

 そして――初めてできた「仲間」と呼べる存在。

 

 

 ナミは、自分の頬が緩んでくのを自覚する。止めようなんて無理な話だ。この状況下で、どうして笑わずにいられよう。

「楽しいわ」

「ん?」

 ナミは船首を振り返る。首を傾げている麦わら帽子の少年を見上げ、もう一度ハッキリと告げた。

「私、今、馬鹿みたいに楽しい」

 ほんのわずか、ルフィの漆黒の瞳に見詰められた。

 そして返ってくるのは、「ししし」と歯をむき出しにした笑顔。

「そっか。なら、だいじょーぶだ!」

 それだけ言うと、ルフィはぴょんと身軽に船首から飛び降り、ゴムの能力を使ってあっという間にゾロたちの方へと下りていく。その後ろ姿を見送ってようやく、ナミは、ルフィから質問に対する明確な答えを貰っていないことに気づいた。彼がゲンゾウとした約束は、何だったのか。

 けれど、もう遅い。今更もう一度尋ねたところで、きっとルフィの中ではこの質問は解決してしまっているだろう。ナミに訊かれ、自分の脳内だけでゲンゾウとの約束を反芻し、ナミに楽しいかと訊いた。

 どんな約束をしたせいでそんな質問になったのか、ナミには分からない。が、ナミの返事を聞いて、ルフィが大丈夫だと満足げに笑ったのだから、つまりはそういうことなのだろう。

 

 ルフィが加わったことにより、余計に騒がしくなったメインマストの方を見下ろす。手摺りに両腕を載せれば、目をハート型にしたコックがぶんぶんと手を振ってきた。

「ナミすわん!今日の昼飯は何がいいですか!?この船上であなたに作る初めての料理!いつも以上に気合入れて作りますよー!!」

「あ、おれ肉がいい!骨付きの!!」

「てめェにゃ訊いてねぇ!つか、お前はそれしか言えねぇのか!?」

「おれは握り飯」

「おれ様は心が広いから、きのこ以外なら何でもいいぞ」

「だから、お前らには訊いてねぇっつーの!!」

 眼下で懲りずに繰り広げられる光景に「馬鹿ねぇ」と笑いながら、ナミは手摺りから身を離す。

 もう一度だけ故郷の島の方を振り返ると、彼女も一歩踏み出した。

 

 馬鹿馬鹿しくも愛しいその輪へ、加わるために。

 

 

 

 

 

あとがき

 45巻440話でココヤシ村の様子が出た時、ノジコお姉さまは、ゲンさんとルフィの約束の内容を知っていたんですよね。でも、二人が実際にその約束をしたシーンでは、ノジコお姉さまはその場にいなかった。ということは、後からゲンさんとそのことについて語り合ったんだろうなぁ……という想像から生まれた話です。

 当初の予定では出番さえなかったはずのゾロ、ウソップ、サンジ君。が、気がつけば結構出張っているのでした。これも彼らへの愛ゆえ?(笑)

 かっこいいのに可愛い、魅力たっぷりのナミさん、ハッピーバースデー!!

 

 

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