有り得ない 眞魔国の第二十七代魔王は、地球で生まれ育ったため、度々そちらへ帰省することがある。主不在のその間の国政を任されるのは、王の信頼の厚いフォンクライスト卿とフォンヴォルテール卿。 だが、実際のところ、魔王が国を去ってからの数日間は、フォンクライスト卿は使いものにならないのが常であった。敬愛する主の不在に、涙どころか全身のありとあらゆる場所から汁を垂れ流して泣き暮らすからだ。 よって、三日前に魔王が帰省してしまったこの日も、やはり執務室で書類と向き合っているのはフォンヴォルテール卿だけであった。もっとも、部屋には彼以外にもう一人、男がいたが。 「閣下ぁ、やせ我慢しない方がいいですってぇ」 実にしつこい。 思いながらも、グウェンダルの目は手にした書類の文字を追っていく。執務机を挟んで彼の向かいに立つ部下は、さっきからこの調子だった。退けと言っても一向に退かない。しつこく同じ説得を繰り返してくる。 酒でも飲んで酔っているのかと疑いたくさえなるが、さすがにそれは無いだろう。いくらこの部下の任務外での素行が宜しくないとはいえ、今は太陽も南中しようかという昼間だ。 「うるさい。誰がやせ我慢など」 「閣下が」 即答で返されたそれには、溜息一つで応じる。 もう、いい加減に放っておいて欲しい。これはそんなに我儘な願いだろうか? けれどやはり、部下の足がその場から動く気配はなく、むしろ呆れ顔でグウェンダルを見てくる始末だ。見ると腹が立つので実際には部下の顔を見てはいないのだが、声音だけで充分にその様は想像できた。聞き分けのない子供を見る、大人のような目。聞き分けのないのはどちらだ。 「無理して悪化したらそれこそ――」 「案ずるな。お前の気のせいだ。私はそう簡単に風邪などひかん」 「閣下。それ、自分で『自分は馬鹿でーす』って言ってるようなもんですよ?」 「何?」 「前に陛下に教えてもらったんですよ。『馬鹿は風邪ひかない』ってチキュウの言葉」 書類から視線を上げた。そろそろ本気で怒ってもいいだろう。今は呆れ顔から悪戯っぽい笑顔に変わっている部下を睨みつける。 大抵の者なら、すぐさま縮みあがる眼光。けれどそれに返ってきたのは、「こっわーい」という実にわざとらしい、気の抜ける反応一つだった。そんな自分の感想に素直に従うことにして、グウェンダルはさっきの溜息など比にならない大きさで息を吐く。 そもそも、だ。なぜ、この部下はグウェンダルの体調不良に気付いたのか。 確かに、部下の「気のせい」などではなかった。今朝からどうにも、身体や頭が重い。そして、時折走る悪寒。熱のひとつでもあるのかもしれない。 けれど、だからといって休んでいるわけにもいかなかった。やるべき仕事は山積みで、しかも日々増えていく。 だからこそグウェンダルは、いつも通りに振舞った。仕事中は勿論、兄弟や王佐が集まる朝食時も。そして誰も、グウェンダルの変調に気付く素振りはなかった。 なのに、なぜ。 「溜息つくと、幸せ逃げちまいますよ?」 悪びれた様子を欠片ほども見せずに、部下が顔を覗き込んできた。 その溜息の原因は何処の誰だと思っているのだ。 「成程。つまりお前は、私から幸せを奪おうとしているわけか」 「ひどっ!グリ江はこーんなに閣下のこと心配してるのにっ!!」 ガタイのよい見た目に似合わぬ女口調で、部下が身を捩る。けれどそれも一瞬のこと。厄介なことに、目はずっと、説得を始めてから真剣な色を消さない。 もうそろそろ、こちらも強制終了の姿勢に入った方がいいのかもしれない。多少、卑怯な切り札を使ってでも。そうしなければきっと、この部下はずっとここで粘り続ける。 「けど本当、無理せず休んだ方がいいですって。風邪の頭で考えたところで、妙な考えは浮かんでも、いい考えなんて浮かびやしませんよ」 「では訊くが、お前が任務中に不本意ながら病を患ったとしよう。お前は休んで任務を途中で一時停止するのか?」 「……」 この日初めて、部下が黙った。 卑怯な質問であることは百も承知。けれど、つまりはそういうことなのだ。グウェンダルにとっても、この部下にとっても。 黙ったままの部下を見上げる。 「私も同じだ。ギュンターは相変わらずあの調子。ここで私まで休めば、国政は完全に一時停止する。そんなわけにはいかんだろう?」 心配してくれる気持は有り難いとは思う。 だが――。 「分かりました。じゃあ、グリ江が肩をお揉みしましょう!」 「は?」 不覚にも、素っ頓狂な声が出た。 この部下の脈絡のない言動は今に始まったことではないが、それにしてもこの反応は何だ? 「ちょっと待て。なぜそこで肩揉みが……いや、いい。そこはどうでもいい。それより、分ったのならさっさと退室――」 「いーから、いーから。グリ江と閣下の間に、遠慮なんて不要ですよん」 グウェンダルの言葉などお構いなしで、笑顔の部下がウキウキと机を回って背後にやってくる。 そう、だからきっと、部下のこの様子に騙されたのだ。 いや。油断した、と言うべきか。 「だから、断じて遠慮などでは……」 うんざりしながら背後の部下を振り返ろうとした瞬間、首筋に衝撃が走った。思わず口からくぐもった声が漏れる。 やられた。思ったところでもう遅い。内心だけで舌打ちをした。 「グ……リエ……」 意識が遠のく。上半身が揺らぐ。視界が狭まる。 どこか遠くで、「すみません、閣下」などという、真摯な声音のふざけた言葉が聞こえた気がした。 どさり。 机へと沈んだ身体を見届けて、ヨザックは手刀を下ろした。 「すみません、閣下」 『お前が任務中に不本意ながら病を患ったとしよう。お前は休んで任務を途中で一時停止するのか?』 上司から問いかけられた言葉。答えられなかった答えは、「否」だ。 だから、気持ちが分からないなけじゃない。いや、分かる。 けれど。 「でもやっぱり、貴方に倒れてほしくないんですよ」 理屈だって、こねられないわけじゃない。例えば、後から悪化して数日休まれるよりも、今から半日だけでも休んで早めに治してもらった方がマシだとか。そもそも、間者の仕事と国政を司る者のそれとでは、比べようがないのだとか。 けれど、これは理屈ではないのだ。ただ、心配で。ただ、身体を休めて欲しい。それだけだ。この人は国を愛するあまり、どこまでも自分を犠牲にするから。 「今更呟いても、もう聞こえていないんじゃないのか?」 響いた声。顔を上げれば、半分ほど開いた扉に寄りかかるようにして微笑む、見慣れた顔が立っていた。いや、むしろ見飽きた顔と言うべきか。 「あぁ、それとも。だからこそ呟いた……かな?」 「分かってるんなら訊かないでくれますー?隊長」 心底嫌そうな顔をしてみせれば、心底愉快そうな顔をされた。 まったく、この幼馴染は。内心だけで毒づく。 「お前もなかなかの過保護だな」 「隊長に言われると、なーんか複雑―」 「そうか?」 「えぇ。そうですとも」 この幼馴染がこうして此処にいるとことが、全てを物語っているようなものではないか。 つまりはこの男も、グウェンダルを心配して来たのだ。王佐閣下や三男閣下は仕方がないとしても、コンラッドがグウェンダルの演技を見抜けないわけがない。 加えてコンラッドの過保護っぷりは、兄弟に向けてだけではない。現魔王への過保護っぷりまで考えれば、確実にこの男の方が過保護の度合いが高いといえよう。そんな男に過保護認定されては、複雑だとしか言いようがない。 「とりあえず、軍曹殿の所へ連れて行くぞ」 上司の体と机の間に腕を差し入れ、肩に担ぎあげる。一つに束ねられている濃灰色の髪が大きく揺れた。鋭い光を放つはずの深い青の瞳は、閉じられたまま。 相変わらず扉に寄りかかったままの幼馴染の脇を通り抜けようとすると。 「礼を言う」 男が呟いた。 「グウェンダルのこと、気にかけてくれて」 「別に――」 「それに」 遮るように言って、幼馴染が笑う。皮肉交じりの顔だった。 「お前がやらなきゃ、俺がやってた。できればやっぱり、憎まれ役は御免こうむりたいからな。それを自ら進んで引き受けてくれたことにも感謝する」 「うっわー。まさかそれでアンタ、出てこないで様子みてたのか?ズルい奴―」 少々恨みを込めて見れば、コンラッドが肩を竦めてクツクツと笑った。 確かにこの上司のことだ、目が覚めればきっと文句を言うだろう。それとも、無言で目線だけで訴えてくるか。どちらにしても、怒るであろうことは確実だ。 「それにしても、よくグウェンを気絶にまで持って行けたな」 コンラッドが、担がれたままのグウェンダルの顔を覗き込む。 ヨザックは笑って見せた。 「あら。それはむしろ当然ってもんよ、隊長」 グウェンダルは、殺気や敵意には敏感だ。だから戦場でも、そう簡単に背後は取られなかった。 けれど。 「グリ江の胸には、親分閣下への愛と忠誠しかないんだから」 この上司への殺意や敵意なんて、一欠片もあるはずがない。 |
お題:「風邪」,「過保護」 |
あとがき 本当は、お庭番に、上司閣下の鳩尾へ拳一発!ぐらいのことをさせてみたかったのですが(笑)、正面からの一撃じゃグウェンは簡単に気付くだろうと思い直し、地味に(?)背後から手刀一発となりました。 お庭番の、有利に対する忠誠の姿勢と、グウェンダルに対する忠誠の姿勢とでは、やっぱり微妙に違うと思うのです。どちらが上とかではなく、姿勢の種類の違いというか。原作だけでなく、マニメやドラマCD等のイメージもあるのかもしれませんが、ヨザックはグウェンに対しては少―し、過保護な面もあるような印象を管理人は受けています。まぁ、次男閣下の過保護っぷりは言うまでもありませんけれどね。(笑) |