「心に決めたって……誰だ?」 「貴方よ」 さも当然と言わんばかりに返されたそれに。 一瞬、思考が止まった。 自分がその時どんな顔をしたのかは、よく覚えていない。ただただ心臓が激しく暴れまわる音だけが頭に響いていた。顔やら耳やらが急激に熱を持ったような気もするが、気がしただけだと信じたい。 「アーダルベルト?」 テーブルを挟んだ向かいからの声に、我に返る。無反応のオレを怪訝に思ったのだろう、ジュリアの首が傾げられていた。 適切な言葉も反応も直ぐには浮かばなかったが、それでも何かしら自分もアクションを返さなければ。焦りのままに口を開きかけた途端、ジュリアがハッとしたように厨房の入口を振り返った。僅かに遅れてオレもそれに気付く。 城内をオレ達以外の誰かが動いている音。引きずるようなそれから察するにスリッパだろう。侵入者でもなければ警備兵でもなく、ここの住人のようだが、だからといって油断はできない。 動揺していたことに加え、彼女が視覚以外の感覚が常人より鋭いこともあるとはいえ、気付くのに遅れた自分に内心舌打ちしながら、オレは素早く席を立った。 「たぶんトイレか何かに起きただけだと思うけど、気をつけて」 小声で言いながら、ジュリアも手探りでオレの持ち込んでいた袋を掴み、空になっていた皿をそこに詰め込む。 ここ最近はずっと、食材も調理器具も食器も、基本的にはオレが持参するようになっていた。城に備蓄している食材の減りがバレるのは当然として、器具の配置や洗い方にも、細かいが個性というものは出る。城に勤めるプロの料理人ともなれば、そんな些細な変化にも敏感だった。 少し大きめの袋を肩に担ぎ、オレは窓から庭へと降りる。続けてジュリアも窓枠から上半身を乗り出した。 「今日もありがとう。本当に美味しかったわ。また明日」 普段よりもやや早口で告げられたそれにオレが返答する間もなく、彼女の笑顔が引っ込み、窓が音も無く閉まる。 あっという間にオレは独り、夜の静寂に包まれた。 何も、言えなかった。 浮かんだその言葉は、直前の彼女に対してか。それとも、「貴方よ」と驚いたように言った彼女に対してか。 だがその結論を出す間もなく、城の外を巡回する警備兵の灯りを遠くの視界に捉え、オレは静かにその場から駆けだした。 うるせぇ。 同室者である見習士官仲間の鼾に、オレは思わず眉間に皺を寄せる。ちょっとは黙れ、眠れねぇじゃねぇかと内心だけで文句を並べ立てるが、それらは所詮、ただの八つ当たりでしかなかった。 実際こいつの鼾という名の騒音にはとっくに慣れていたし、そもそもそんなことが気になって眠れないなどと神経質なことを言っていては、軍隊ではやっていけない。 ―― そう。ただ単に、“あんなこと”で眠れなくなっている自分を、素直に認めたくないだけだ。 「また明日」と、当然のようにジュリアは言った。きっと明日も、彼女はいつもの時間にいつもの厨房で、窓を開けて待っているのだろう――「いつも」のように。 『だからね、お父様に言ったの。恋愛も結婚も、するならわたし、もう心に決めたお相手がいますからって』 彼女からオレに直接向けられたのは、「貴方よ」というたった一言だったが、それは一種の告白だ。 だが、想いを相手に伝えたからといって、ジュリアはそのことを恥じらう様な女じゃない。世の中には、告白した途端、あまりの恥ずかしさに泣き出したり逃げ出したりする女もいるらしいが、ジュリアにそれはあり得ない。きっと明日もいつも通りにオレを迎え入れ、いつも通りに食事と会話を楽しむのだろう。 だが、オレは? オレはまだ、彼女に何も告げていない。今夜気付いたばかりのこの想いを、何一つ。 さっきの言動からすると、もしかすればジュリアは、オレも彼女のことを想っていて当然と信じて疑っていないのかもしれない。だが、それに甘えて自分からは何も言わないというのは男としてどうだ?いやしかし、明日いつも通りに食事を楽しんでいる彼女に、唐突にこの話題を蒸し返すというのも……――。 「あーっ、クソ!」 思わず寝台から身を起こし、片手で髪を乱暴に掻き混ぜる。 知らず吐き出した息は、情けなくも、微かに震えた。 「……こんなにグチャグチャ考えるような奴だったか?オレ」 違う。もっと豪快で、悪く言えば大雑把で、成行きに任せてもそれなりに対応できる柔軟さと力も身に付けていたはずだ。 なのに、彼女のこととなると途端に、妙に憶病になる自分がいる。 「……う、ん。……案外そうじゃね?」 突然返った声に驚いて視線を向けると、目を閉じたままの同僚がみっともなく涎を垂らしながら「うへへ……」と笑っていて。 そのまま寝返りをうって再び鼾をかき始める姿に、 「寝言かよ!」 と、オレは思わず手近にあったタオルを投げつける。 一瞬だけ止まった騒音は、すぐにまた気持ちよさそうに再開された。 厨房の窓枠に手をかけると、ジュリアの弾んだ小声が降った。 「いらっしゃい」 やはり彼女は、いつも通りにオレを迎え入れた。片手を侵入させただけで気付くのだから、目の見えない彼女に、オレの気配や匂いはすっかり把握されてしまっているらしい。それが嫌じゃないどころか、少し嬉しくさえ思ってしまうのだから、自分に苦笑するしかない。 窓枠を乗り越えながら、オレは彼女に昨夜は大丈夫だったかと尋ねた。 「えぇ。やっぱり弟がトイレに起きちゃったみたいで。結局、厨房の辺りは通らなかったから、バレずに私も部屋に戻れたわ。貴方の方も大丈夫だったみたいね?」 「そりゃまぁ、伊達に兵として実践積んでるわけじゃねぇからな。オレの心配は要らねぇよ。―― それよりホラ、手ぇ出せ」 「なぁに?」 「今日の目玉食材」 途端、興味津津とばかりに表情を輝かせ両手を差し出してくる彼女に、袋から取り出したものを載せる。 ジュリアはいつものように、それを指先と鼻で確認した。 「これは、貝?昨日のよりも大きい……って、あら?もう貝殻まで開けてきたの?」 「違う、これはアワビだ。二枚貝じゃねぇから、元から殻は一つなのさ」 「アワビ!それはまた豪華ね!どんな料理になるのか楽しみだわ」 嬉しそうに頬を緩ませながら、ジュリアが白い指先で、むき出しになっている身を潰さないよう遠慮がちにフニフニとつつく。触ると身がうねって縮む感触が面白いらしい。まるで子供だ。 「……こういう一枚貝は、片思いの象徴らしいな」 ジュリアの手の中を眺めながら零すと、彼女が「え?」と顔を上げた。 指先の動きが止まり、そこらの女が見たら気持ち悪いと悲鳴を上げそうなアワビの踊りも止まる。 「元から一枚だから、二枚貝のような自分にピッタリと合う貝殻が無い。だからアワビは、叶わない相手のことを常に想ってるんだとよ」 「アーダルベルト……?」 オレの口から出るには、らしくない話題だと思ったのだろう。彼女の表情だけでなく、声にもそれが滲んでいる。 オレは、止まったままの彼女の手からアワビをそっと取り上げた。 「だから、こんなモンは早々に喰っちまいたいと思った」 言いながらそれを袋にしまい、ジュリアの目を真っ直ぐに見据える。 視力を持たない、けれど、持ち主の気性をそのまま表すかのような、綺麗に透き通った真昼の空の色。 「“昨日までのオレ”とは、さっさとおさらばしたいからな」 「……」 ほんの少し、その空色の面積が広がった気がした。 だがそれはすぐに元に戻り、ふふ、と柔らかな笑い声が落ちる。 「ねぇ、知ってる?回りくどいのとロマンチストは紙一重なのよ?」 「さてな、何の話だか。少なくともオレは、回りくどくもロマンチストでもねぇよ」 単に口下手で照れやすい、元・アワビ男なだけだ。 あわびの恋 恋に落ちたのは昨日だが、 その前だって、いつもお前のことを考えてた。 じゃなきゃ、短期間でオレの料理の腕が こんなに上達するはずがない。 |
あとがき 初めて書くペアでした。でもよく考えたら、まるマでこうハッキリと恋愛色のある文を書いたこと自体、初かもしれません。(別に、ラブラブ甘々な空気が流れているわけではありませんが。笑) 以前、アーダルベルト(と有利とヨザック)が好きだというお方からメールを頂きまして、そういえば拙宅ではあまりマチョさんを書いたことがないなぁ、と思い。ようやくこうして書けたわけですが…実はそのメールを頂いたのは、もう1年半以上も前だったりして。(遠い目) 管理人はロマンチックの定義を誤解している気がします。(笑)でもまぁ、ジュリアさんの感覚もちょっと独特なイメージがあるので、これでいい…と思いたい。 |