相手と目が合ってさえいなければ、そのまま気配を消して静かに縄梯子を後退することもきっと出来ただろう。けれど、その目は互いにしっかりと合ってしまった。ならばもう、このまま上がるしかない。 小さく溜め息を零し、ゾロは展望室の床に足を着けた。 不器用二重奏 空と海に挟まれた夕日が、世界を朱色に染める。涼しくなるこの時間帯にもう一度トレーニングをしておこうと、ゾロが展望室へ向かったのはつい先ほどのことだ。メインマストの縄梯子を上り、室内へと顔を出したところで、先客だったらしいナミとまともに目があった。 気付かれぬうちに後退という選択肢がなくなってしまったゾロは、展望室に両足を着けたものの、極まり悪げに目立つ緑色の髪を掻く。 「あー……。場所、変えてくれたりしねぇか?」 「何よそれ。今の私を見て一番に言う台詞がそれなの?」 ベンチに凭れていた姿勢を起こし、ナミが不満そうに眉間に皺を寄せた。 窓からの夕日で朱に染まった腕で自身の目元をこすり、夕日とはまた異なる赤い目でゾロを軽く睨んでくる。 「何で泣いてるのか、とか。訊くでしょ、普通」 「訊いたら答えるのか?」 「まさか。答えるわけないじゃない」 ならば一体どうしろというのだ。 ゾロが軽い頭痛を覚えていると、ナミが再びベンチの背に凭れかかった。視線を窓の外に向けながら、ポツリと零す。 「慰めて」 「は?」 「いいから、理由は聞かずに慰めて」 いよいよゾロの頭痛は激しくなった。 要求してくる内容も内容だが、それをゾロに求めてくるのは明らかに人選ミスだ。そもそも、そんなことが分からないナミでもあるまい。 だというのに、ナミはそれきり黙ってしまう。返事をしろとばかりに。目線をゾロではなく窓の外の海へ向けているところがまた、無言の圧力をゾロに感じさせる。 ゾロは再び溜息をついた。 「おれには向いてねぇ。そういうことはコックにでも頼め」 「駄目よ。サンジ君はすぐメロリンするもの」 「じゃあ、ウソップは?」 「今は面白おかしいホラ話を聞く気分じゃないわ」 「じゃあルフィ」 「本気で言ってんの?」 ジロリと横目で睨まれた。さすがに返事が適当すぎたか。悪い、と素直にゾロは謝った。 そんなゾロにあからさまな溜息を吐くと、ナミが再び姿勢を起こしてゾロに向き直る。真っ直ぐな目でもう一度、 「慰めて」 と言ってきた。 赤みが取れないままのその目を見つめ返し、ゾロは悟る。駄目だ、これは何かしらしないと彼女は本気で此処を動きそうにない。そうなれば、自分はこんな視線が刺さる中でトレーニングをする羽目になる。いや、トレーニングを諦めて此処を抜け出すという選択肢もあるのだが、何故だかその時のゾロに、その考えは浮かばなくて。 吐きだした息が、溜息なのか、ただの呼吸なのかも最早分からないまま、腹を括ったゾロはナミの隣にゆっくりと腰かけた。 ナミ自身、自分がなかなかに理不尽なことを言っているという自覚はあった。そもそも、この不器用な剣士が誰かを慰めるなんて不得手に決まっている。そうと分かっていてこんな無理難題を要求したのは、もしかしたら八つ当たりめいた感情もあったかもしれない。……本音も、全く含んでいないと言えば嘘にはなるが。 けれど、真実ナミの意図がどこに在ろうと、どの道この男は此処を去るだろう。困り果て、無理だと断り、立ち去っていく。寧ろそうなることが当然だろうとさえ思っていた。 だというのに、ゾロはこの部屋に来てから何度目になるか分からない溜息をつくと、ナミの隣にゆっくりと腰掛けてきた。意外なその反応に相手を見上げようとすると、突然頭に降ってきた微かな重みにそれを邪魔される。 ナミの頭上で、ゾロの無骨な手がポンポンと2度だけ動いた。 「あー……、とりあえず。悔しいんなら、泣いとけ」 予想外のことに一瞬、息が止まる。 すぐにまた声が降ってきた。 「悲しいんなら、やっぱり泣いとけ」 声と共に、頭に置かれたままの手からもじわりと熱が降ってくる。 「それ以外なら……とりあえず、辛くなくなるまで目ぇ閉じてじっとしてろ」 そのうち、じっとしてるのに飽きて動きたくなる。 呟くようにそう付け加えると、ゾロは黙った。 落ちた沈黙の中、小さくナミは苦笑した。あぁ、何てこの剣士らしい理屈だろう。滅茶苦茶で、でも、単純明快。 不器用であるはずの男は、果たして今どんな顔をしてこんなことをしているのか。見たいのに、手を頭に載せられているため、視界に入るのは呼吸に合わせて動く緑の腹巻きばかりで。 ナミは言われるがまま目を閉じてみた。五感の一つを休めることで、頭に触れている熱が更に濃く感じられる。治まりかけていた目の奥の熱まで、じわじわと蘇ってくるのが分かった。 ナミが動き出したくなるまでずっとこうしていてくれる、などということはゾロは言っていない。けれど何となく、そんな気がした。 このままこうしていれば、不器用なこの男は、ずっと……――。 「あーあ。やっぱり駄目ね」 ナミは一際大きな声を出すと、勢いよくベンチから立ち上がった。当然、頭に載っていたゾロの手も滑り落ちる。一瞬にして、頭上からの熱が消えた。 「駄目。全っ然、駄目。あんたに頼んだ私が馬鹿だったわ。あんたには誰かを慰めるなんて無理!」 言いながら、さっさと縄梯子へ向かって歩き出す。 向かいの窓から見える夕日はもう、水平線へ完全に沈もうとしていた。背中からはゾロの「だからおれもそう言っただろうが」という、ため息混じりの声が追いかけてくる。 「……でも」 縄梯子まであと一歩というところで、ナミは足を止めた。首だけを捻ってゾロを振り返る。 「何も無いよりは、下手でもあんたの慰めがあってよかった」 ありがと。 呟いて、縄梯子に足をかける。涙目になっているのを見られただろうか。いや、振り返った時には既にゾロとそれなりの距離が空いていた、きっと大丈夫だ。 言い聞かせるように胸中で繰り返しながら、ナミは縄梯子を下りていく。もうゾロの方を振り向くことはしなかったし、ゾロの声もまた、追いかけてくることはなかった。 |
あとがき 不器用な人、2人。どちらも不器用さの種類は違いますが、やっぱり不器用な人たちだと思います。 表面的にはドライに見えても、根底ではちゃんと繋がっている。麦わらチームで時々見られる、そんな関係を表現できていたら嬉しいです。 雰囲気重視な話になってしまいましたが、普段あまり書かない感じのゾロが書けて楽しかったです。 |