「あなたは……そんな愚かな方ではないでしょう」 微かに首を振り否定したコンラッドの声が、何度も何度もおれの頭の中を駆け巡った。 「ごめん」ではなく… 「―――……いか。陛下」 呼ばれている。そう思い目を開くと、そこは船の操舵室だった。 前方には、もうすっかり暗くなった海を背景に、この船を操る神族の男の姿。昼間に船底から連れてきた、“奴隷”と呼ばれていた人たちの一人だ。 段々と頭が回転を始め、今日の出来事がよみがえってくる。 「ごめん。おれ、寝ちゃってた?」 隣に並ぶ護衛役を振り仰ぐと、彼は苦笑した。 「ええ。こーんな顔してね」 ヨザックが眉間にこれでもかというぐらいに皺を寄せる。 「うっわ。ひでー顔」 「でしょ?折角のいいお顔が台無し!」 「だーかーらー。おれは元々、凡人顔なの!美形とは程遠いんだってば」 軽い調子で答えるが、内心では自嘲していた。 昼間のことは思い出さないようにしようと決めたはずなのに、思い出すどころか夢にまで見てしまう。それも、表情にはっきりと出るほどに。だからこそ、お庭番も見かねておれを起こしたのだろう。 船は相変わらず、浮き沈みと横揺れを繰り返していた。この荒波の海域を抜けるのは、まだまだ先のようだ。 「お疲れなんじゃないですか?陛下」 おれがぼんやりと海を眺めていたからか、それともさっき夢にうなされていたからか。どちらの理由かは分からなかったが、ヨザックが心配顔でおれを覗き込んできた。夜の闇の中でも、彼のオレンジ色の髪は映える。 「やっぱり船室に戻った方が……――」 「いや。まぁ確かに、痛い部分は所々あるけど、おれはこの人に舵取りをさせてる責任があるからね。これぐらいで音を上げるわけにはいかないよ。……って、さっきまで寝てた奴の言う台詞じゃないけど」 おれの返答に、ヨザックは一瞬眉をひそめたが、次の瞬間にはいつもの口調で言う。 「何を仰ってるんですか。眠いってことは、体が『疲れたー!』って、悲鳴上げてるんですよ?ここはオレに任せて、寝台で横になってきて下さい。寝れる時に寝ておかないと。いつ徹夜を強いられる日が来るとも限らないんですからね?」 「それはそうだけど……。でも、今はもうサラも寝ちゃってると思うし。起こしちゃ悪いだろ?」 同室の少年王のことを思い、おれは首を横に振った。 彼はいつも早々と寝てしまう。夜更かしは肌荒れの元だから、と。 それに、彼の周囲にはあの“臨時の護衛”がいるかもしれない。 けれど、お庭番は余程おれのことが心配なのか、尚も食い下がる。 「だったらオレの寝台を使って下さい。坊ちゃんたちの使ってた部屋ほど広くはないですけど、ここで座ったままでいるよりは遥かにマシです」 「そう言うヨザックこそ、横にならなくていいのか?え〜っと……あっ、ほら!おれよりずっとご高齢なわけだし」 「まぁ!ひどいわ、坊ちゃんたら!グリ江はいつまでも純粋な心を忘れない、永遠の乙女なのにーっ!」 ヨザックが得意の女口調で体をくねらせるが、いつもより様になっていないような気がするのは考えすぎだろうか。 そんなおれを余所に、お庭番は真顔に戻ると、立てた人差し指をズイッとおれに近づける。 「そーれーに。こういう時は、歳より体調の方が優先です。オレは一応、今のところ無傷ですからね」 そう言って、惚れ惚れするような腕の筋肉をポン、と叩かれれば、これ以上の抵抗はできなかった。 「……わかった。悪いな、ヨザック」 「いーえ。オレは徹夜なんて馴れっこですから。あっ、でも、船室まではオレもついて行きますからね?ここに残れと言われても ついていきます」 「わかってるよ」 わかっている。彼は、おれの護衛役なのだから。 この船の上で…―――たった一人の。 「ここですよ、坊ちゃん」 ヨザックが自身の寝床としている船室の扉を開けた。 確かに彼の言っていた通り、その部屋は大人二人が入れば一杯になりそうな、寝るためだけの場所、という感じだった。 朝方、偶然出会った神族の女性を匿えないかと尋ねたおれに、肩を竦めたお庭番の姿を思い出す。 「それじゃ、オレは操舵室に戻りますね」 「ああ、よろしく」 そこまでは、おれも何とか冷静さを装っていた。口数こそいつもより少なかったが、できるだけ普段どおりに振舞っていたつもりだ。 だけど、やっぱりおれは短気らしい。次の瞬間に放たれた、ヨザックの去り際の笑顔の一言に、おれの中で繋ぎとめていた何かが音を立てて切れた。 「それじゃあ坊ちゃん、いい夢を〜」 「いい……夢?」 低く呟いたおれに、扉を閉めかけていたお庭番の手が止まる。 「いい夢……ねぇ?見れるわけないじゃん、そんなの。見れるもんならぜひ見てみたいね」 八つ当たりだ、ともう一人の自分がおれに言う。こんな台詞、ヨザックが本気で言っているわけではないことぐらい分かっている。わざと何も気にしていないように振舞ってくれているだけだと。 なのに、短気なもう一人のおれは、平気でひどい言葉を口にする。一度喋り始めたら、途中で止まることを知らない。 「何がいい夢だよ?ヨザックだってさ、さっき寝てた時のおれを見てただろ? そりゃあ、あんたは大人だし、おれなんかよりずっと精神も強いから、“あんなこと”があっても平気なのかもしんない。
だけど……」 一瞬にして生まれたものは、一瞬にして消える。 まくしたてるような勢いはあっという間にしぼみ、代わりに何とも言えない気持ちが胸中にジワジワと広がっていく。 「けど……、おれには無理だよ。情けないけど。おれは、そこまで強くない」 「さっき……」 黙っておれの最低な言葉を聞いていたヨザックが、ようやく口を開く。 そうして、昼間以来、お互い意識的に避けていた話題を、彼が遂にはっきりと口にした。 「海に突き落とされたこと……ずっと、気にしてるんですか?」 “突き落とされた”という単語に、思わず体がビクッと反応する。 おそらく、扉越しの彼にも伝わってしまっただろう。 「……って、そりゃそうですよね。当たり前だ。しかもその相手が……」 お庭番はそこで言葉を切ると、閉めかけていた扉を再び開いた。目の前に現れた彼の表情は、海上に浮かんだ月が逆光となって分からない。 いつも陽気で無礼なお庭番は、彼らしくなく、ゆっくりとおれの前に膝をついた。 「昼間は本当にすみませんでした、陛下」 「えっ?!ちょっ、何?!」 おれは驚いて、慌てて顔の前で両手を振る。 「ヨザック!やめてくれよ こんなこと!おれがこういうの苦手なの知ってるだ……――」 「いいえ、言わせて下さい」 彼は頭を下げたまま、真面目な声音で続ける。 「あれはオレの不手際です。オレは油断していました。あいつ……ウェラー卿は、形だけでは裏切り者を装っていても、本当は何か理由があるんだろうと。本当は、今でも眞魔国の……陛下の味方なんだろうと、何の根拠もなく信じ込んでいました。そのせいで、陛下にこんな辛い思いを……――」 「もういい。もういいよ、ヨザック。やめてくれよ」 おれは、お庭番の肩を掴んだ。 コンラッドが本当におれを裏切るなんて、そんなことはない。そう思っていたのは自分だって同じだ。そしてこんな状況になっても尚、おれの中には未練がましくも二つの思いが混在している。 コンラッドのことはもう諦めろ、という思いと、まだ諦めたくない、という思い。 「……ですが」 お庭番は、おれの言葉など聞いていないかのように、こちらを見上げた。ヨザックの顔に月明かりが射し、ようやく彼の表情が見える。 「もう二度と、あんな真似はさせません。ウェラー卿は、眞魔国の敵だ」 少しも揺らぐことのない青い瞳に射抜かれて、おれは気付いた。彼は、本当に決意してしまったのだと。少しでも持ち続けていた幼馴染を信じる心を、今日あの瞬間、完全に捨て去ったのだと。 そして、彼をそうさせてしまったのは、自分なのだと。 「ごめん、ヨザック」 「え?」 怪訝そうにするお庭番に視線を合わせるために、おれもしゃがみ込んだ。 「ごめん。油断してたのはおれも同じだ。おれがもっと警戒していたら……もっと自分の身を守ることに専心していたら……、ヨザックだってあいつのこと、信じたままでいられたのにな……」 かつて、彼がコンラッドについて語った言葉。それらは今でもハッキリと覚えている。 『戦鬼とも見紛う様相を目にしていれば、この男に付き従って、生死の果てまで突っ走ろうという気にもなる』 『今でもやはりウェラー卿の復帰を望む声は多いんですよ。彼の下で働きたがる者は後を絶たないし……』 自分もその一人だ、なんてことは口にしなかったけれど、語るその目を見れば、そんなことは言わずもがな、であった。 それほどまでの、信頼を。幼馴染として、戦友として、彼らが築き上げてきたその信頼を。おれが、壊してしまった。 おれが、馬鹿なばっかりに。 「ほんと、ごめん……」 深く頭を下げた。こんなことで許されるようなことではないのだろうが、今の自分にはこうすることしかできなくて。 すると突然、頭上からふっ、と相手の微笑む声が降ってきた。 「ほんと、敵わないなぁ、陛下には」 「え?」 言われた意味が分からず顔を上げると、そこには苦笑を浮かべたお庭番の顔。 「信じ続けるだなんて、オレにはそんな必要ありませんよ、陛下。もしあのままオレがあいつを信用していたら、この先、オレは陛下をもっと危険な目に遭わせていたかもしれない。そうでしょう?オレみたいな一兵士なんかのことより、ご自分の心配をして下さい」 「でも……」 逡巡するおれに、優秀なお庭番は努めていつもの調子をつくってくれる。 「それじゃあ、お互い油断してたってことで、おあいこにしません?って言うか、お願いですから そういうことにしておいて下さい。魔王陛下直々に謝られるなんて、オレには畏れ多すぎて困っちまいますよ」 「ヨザック……」 あ〜恥ずかしい!とグリ江口調で立派な両腕を掻き抱く彼に、おれは思わず小さく笑った。 ヨザックの心遣いが、今のおれの胸にはとても温かく染みて。 「ああ……わかった。おあいこ、な」 本当は、そんな簡単な一言で片付けるべきではないのかもしれないが、彼の心遣いを無にしないためにも、ここは頷いておくべきだろうと思った。 「それじゃ、今度こそ本当に、オレは操舵室に戻りますからね」 立ち上がったお庭番が、扉の取っ手に手を掛ける。 「あぁ。よろしくな、ヨザック」 「は〜い。グリ江にお任せあれ」 殊更明るく言って、ウィンクまで投げられる。やっぱりまだ、気を遣わせてしまっているらしい。 申し訳なく思っていると、お庭番が部屋を出ようとしていた足を止め、振り返った。 「そーだ、陛下。悩み事なんですがね」 「へ?悩み事?」 唐突すぎて何のことか分からなかったが、ヨザックは頷く。 「そういうもんは、誰かに吐き出すと案外楽になるもんですよ?まぁオレは、わがま……じゃない、ヴォルフラム閣下みたいには気安くないでしょうし、肝心要な時に役に立たないお庭番ですけど……――」 そんなことはない、とおれは慌てて首を振る。確かに気安さについては否定しがたい部分もあるが、本当に彼のことは頼りにしている。 「おや、そーですか?嬉しいこと仰ってくれますねぇ。……まぁとにかく、こんなオレでも話聞くぐらいはできますから、気が向いた時はいつでもどーぞ。あっ、でも、恋のお悩みの時は早目に仰って下さいね?化粧や衣装の準備が要りますから」 「あー……グリ江ちゃんの出番はないと思うな。多分」 何しろ生まれてこのかた、恋の悩みにぶつかったことなど数える程しかないのだから。 ちょっと悲しげに言うおれに、お庭番は愉快そうに笑った。夜中だというのに、近所迷惑などお構いなしだ。 「わかりました。それじゃ、明朝起こしに来ますんで、それまでこの部屋から出ないで下さいよ?」 「ああ、分かってる。おやすみ、ヨザック」 返事の代わりに笑顔を浮かべ、お庭番は静かに扉を閉めた。 ヨザックの軍靴が、段々と離れていく。おれは小さな音を立てて扉の鍵をかけた。ここから先は、自分で自分の身を守らなければならない。 寝台へと向かうと、そこにはベッドメイキングされたままのお庭番の寝床があった。おれやサラの船室は毎朝掃除の人が入ってベッドメイキングもされるが、他の部屋は自分たちでしていると聞いた。つまり、この綺麗なままのヨザックのベッドは乗船時から使われていないということ。 おそらく昼夜問わず、彼は諜報員として、護衛として、船内を動き回っているのだろう。もちろん仮眠ぐらいはとるだろうが、布団に入ってゆっくり……なんてことはなかったようだ。 「ありがとな、ヨザック」 シーツをゆっくりと撫で、呟く。 本当は謝りたかったが、あえて礼を述べた。その方がきっと、彼は喜ぶ。 おれは寝台に横になり、真っ暗な天井を見詰めた。 裏切られ、突き落とされた自分だけが辛いような気になっていたが、そうじゃない。ヨザックだって……いや、もしかしたら彼の方が、おれよりずっとショックだったのかもしれない。 けれど、ヨザックはもう、決心をした。コンラッドの戦友にして幼馴染の彼が、決心したのだ。―――だったら。 「おれも……覚悟を決めなきゃな」 大きく息を吸い、夜の冷たい空気を取り入れると、代わりに体内の汚れた空気を一気に吐き出す。そしてそのままゆっくりと、両目を閉じた。 おそらくまた、おれはあの時の夢を見るに違いない。 だけど、それはきっと、馬鹿で忘れっぽいおれのため、神様か何かが見せているのだろう。 “ウェラー卿コンラートは、敵なのだ”……と。 |
あとがき 一人称書きに初挑戦です。主を気遣う臣下、臣下を思いやる主。そんな、私の中での理想的な主従関係を書いてみました。 とはいえ、これは次男ファンの方には申し訳ない話ですね。もちろん彼は有利を地球へ返そうとして海へ突き落としたわけですが……、二人は知りませんからねぇ、そんな事情。(泣) 「やがて(マ)」で、ヨザックはもちろん、有利までもが「ウェラー卿コンラートは、敵だ」と、しっかり次男に警戒心を抱いて(抱こうと?)していて。それが私としては、やけに急激な変化に見えたんです。いつの間にそんな決心がついちゃったの?と。その流れを妄想した結果が、この話です。(笑) |