こちらのお話は、「六天ノ王」様のTEXTのFour Seasons中にあります、「冬(Heiβe Schokolade)」というお話の後の「春」の話になっているそうです。(はっきりいつの「春」とは言えないそうですが。)

 そのことをご理解の上、お読みになって下さい。

 

 

 

 

花霞

 


 _どうやら、自分は酷く酔ってしまったらしい。
 
 数日間の休暇を特に何もせず消費していた男は、その事実を確認する為、己がそう思い至った原因に、もう一度意識を向けた。
 

(…うん、うん。酔ってるんだなぁ、こりゃ〜。)
 
 改めて思うと、感慨に浸りつつ眼を閉じた。
 
 走り抜けて来た、短くはない年月の中で、自分は一体どれ程の酒を呑んできただろうか。
 
 
 
 まだ身体が受け付けない位に小さな頃に飲み始め、百歳を超える今迄、機会がある度かなりの量を呑んできた。無論、先立つ《金》が無かった時代には、そんな贅沢等していられなかったので、自分で稼ぐ身分になってからが殆どだが。
 幸い_と云うかどうかは、其々意見の分かれる処かもしれないが_酒精への耐性が非常に強かった自分は、呑んでも“呑まれて”しまう事も無く、精々が多少陽気になり羽目を外す程度。勿論、人事不省にも前後不覚にも、縁は無い。
 酒気に依る開放感で騒ぎや喧嘩を引き起こした覚えはある。どうにもならない現実社会の壁や処理出来ない欲望を紛らわす為の深酒にも、何度かお世話になっている。
 しかし、常に何処か必ず冷静な自分を保っていた。例えば、酔い潰れるのは、きちんと事後処理をしてくれる相手が居る時に限る、等。_相手の見極めも、非常に需要だ。以前と関係性が変化している場合は要注意となる。昔はお互い問題無く信頼出来ていたが、今や迂闊に気を抜こうものなら何をして来るか分からなくなっている俺の幼馴染が、そのいい例だ。
 
 真の絶望も、耐え切れない餓えた欲望も、知らなかったおかげかもしれない。数ヶ月前の冬の夜、たった一度だけ。我を忘れて溺れてしまったのは、まだ記憶に新しい。_純粋な意味では、あれは酒と云えないが。_
 
 
 何にせよ、現在の自分は酒精の助けを求める状況になかった。
 
 ただ、暇を享受するついでに自室の片付けを行い。こっそり貰ったまま隠してあったモノを見て、暫く前に其れを自分にくれた彼が不在であると、今更ながら思い知らされてしまい。
 
 少し、気分が沈んだ。_それだけ。
 
 其れを隠しておかなくてはならない相手も、今夜は不在。帰ってくる予定は明日以降だ。
 徐々に暖かくなる此の季節。昼間はいい天気で、日没後も急な冷え込みは無かった。風もなく穏やかな夜空には、満月が浮かんでいる。
 彼がくれた其れを手に取ると、部屋の窓を開けて枠に腰掛けた。明るく照らす月の光に翳すと、透明な器の中で極薄く色付いた液体と、白い花弁が揺れる。
 

『味の保証は出来ないんだけど…お袋が去年漬けたものなんだ。使ったのは結構強い酒だから、おれはまだ無理だって言ったら、アチラのお友達に持って行けって……。一つしかないから、内緒で、な?』

―要は、春に咲く花を漬けてある酒かな…果実酒の花版。あ、花の名前?…《桜》って云って、日本人には、特別な意味がある花でさ…。―
 
 小さな秘め事を囁き、花よりずっと綺麗に笑った彼は。
 自分の休暇が始まる前日に、アチラへ渡ってしまった。正確には、彼が不在な為、休暇が与えられた訳だ。彼が居る間、自分達護衛は命ぜられても休みを取らないが。
 
 『こっちは、もう春の盛りにさしかかって来てるけど、あっちじゃまだまだ寒い日が多いかな。やっと、桜が咲き始める位。』
 彼の暮す国では、春に新たな始まりを迎えると聞いた。学舎に入るのも、そこで次の過程に進むのも。学舎での過程が終了するのも。社会で職に就き、稼ぎ始めるのも。_そして、それらに伴って生まれ故郷や親元を離れ、独り立ちするのも、春。

『…他にも理由は色々あるんだ…おれも全部は知らない。でも、多分。何かを終えたり始めたり、誰かと別れたり出会ったりする時に咲いている花だから、皆、其々想い入れがあるんじゃないかな。』
 
 
 

『今年の桜はどうなんだろ…。』

『早いらしいよ〜。渋谷は、花見の予定はどうなってるんだい?』

『…うちは毎年、満開になって来たのを見たお袋が、勝手に日程決めちゃって、半ば強引に家族を連れてくぞ。』
 『楽しみだなぁ〜、美子さんのお花見弁当。』
 『うあ、お前、来る気満々だな?村田。』

『…冷たいなぁ、渋谷。誘ってくれないつもりだったの?』
 
 彼がアチラへ渡る、前日。
 事前の打ち合わせに訪れた眞王廟で控えていた自分は、巫女の待つ部屋に向かう彼と猊下が話しているのを、遠くに聞いた。
 
 
 
 『それで、《お花見》って言って。桜の季節、花が満開になったら、桜の樹の下で花を観ながら、弁当を食べたり宴会をする習慣みたいなのが、ある訳。』

―その時に飲みたいらしくって、お袋が家の近くで一番綺麗に咲く大きな桜の樹の花を、毎年こうやって酒に漬け込んでるんだ。おれは未だ飲んだ事ないんで、何とも云えない。…親父や兄貴は喜んで飲んでるから、きっと美味しいと思うよ。―
 

『…だから、良かったら飲んで。ヨザック』
 
 
 
 
 彼が居る間、もはや飲酒に費やす時間など自分には必要なかった。当然、ここ暫くは、殆ど酒精を摂取していない。
 確かに、久しく飲まずに過ごした後で酒を飲むと効きがいいのは、経験上知っていた。軍務によって、度々そういう環境におかれたからだ。それでも、自分にとっては何れも多量に飲んで漸く判る程度の違いでしかない。
 
 片手で持てる位の、小さな蓋付きの器一杯分。
 今夜自分が飲んだのは、たったそれだけ。
 彼の不在は気分を盛り下げてはいても、酔いに逃避を図ろうとする程に切迫してはいない。最近の彼は、次元移動に関する魔力の制御法を格段に進化させつつある。故に何事も無ければ、今回は二週間弱でお戻りになるのが決まっているのだ。
 

(異界の酒だから…?)
 
 考えてはみたもの、直ぐにそれは無いだろうと記憶が物語る。
 数回訪れた異界で、自分が口にして身体に異変を起こした物等、一つも無かった。酒精も試してみたのではなかったか。
 

ここ最近の満ち足りた生活が、とうとう自分の体質にまで変化を及ぼしたのかもしれない。_少量の摂取で酔って、有りもしないモノを見てしまう能天気な酒の楽しみ方が可能に成るとは…。
 そんな、馬鹿な感慨に浸りかけていた意識をとりあえず戻して。
 
 
 自分が酔ってしまったと思うに至った原因をもう一度確かめる為に、俺は閉じていた眼を開けた。今居る場所が場所だけに、万が一、本当に酔っていた場合の危険は大きい。誤って窓から転落するのはご免だった。
 

(………やばい。やっぱり酔ってる。しかも、……悪酔い。)
 
 
 器には未だ少量の酒が残っていたが、今夜は止めておいた方が良いだろう。

蓋を閉め、窓枠に乗せていた己が身を降ろすと、俺は自分の寝台に向かった。…こんな時はさっさと寝るに限る。
 
 だが、窓を閉め忘れたのを思い出し、ついまた振り返ってしまった。
 
 そして_。
 
 
 
 「これ、其処の者」
 
 _悪酔いの所為で見えている筈の妙なモノに、話しかけられてしまう。
 
 月しか居なかった雲の無い夜空に、いつの間にか浮かんでいた。ほんのり薄く桃色がかった白く輝く雲と、その上に立つ異国の衣装を身に纏い雲と同じ色彩の髪を長く垂らした女、に。
 

(………。)
 
 野宿には慣れている。別に窓は開けたままでも構いはしない。俺はもう一度目を閉じ、踵を返そうとした。
 ところが、気配も音も無く、一瞬で俺の前まで移動したその女に、左手を掴まれてしまった。
 

(…あ〜俺、酔ってたんじゃなくて、寝てたんだな…。夢だろ〜これは。)
 
 夢なら、多少の感触が有ってもおかしくはない。また、その感触が普通ではなくても構いはしない、何しろ夢なのだ。
 こんな形(なり)の魔族も人間も知らなければ、彼以外に宙に浮ける程の強力な魔力持ちが居る訳もない。_つまりは、現実ではない。
 そう、片付けて。思考停止を試みる俺に、女は金茶の眼を眇めて容赦無い言葉を浴びせる。
 
 「何を呆けて居るのじゃ、そなたが有利の《ヨザック》であろうがっ。返事ぐらいせぬか。」
 ―全く、これじゃから、右の橘の者は嫌じゃ。―
 
 「へ?」
 
 確かに呼ばれた自分の名と、それに先だって発せられた彼の名と、言葉が意味する処。その全てに反応しきれない俺の口を、間抜けた息と音が通過した。
 弛みきっていた思考の回路は性急な接続に追いつかず、何の応答もして来ない。捉えた疑問だけが、何度も廻る。
 

_今。この女は何と言った?俺の名前の前に…。
 

「あぁ、もうよい。…来よ。」
 
 呆れた表情を浮かべた女が、片手で優雅に扇を開き、口元を覆う。鮮やかな錦が張られた風変わりな扇の両端には白い小さな花を幾つか纏めた飾りが付き、五色の紐による長い房がさがっていた。
 いつの間にか位置をずらし上腕に添えられている、俺の左手を掴んでいた筈の女の手は。見た目からは想像し得ない強い力を伝えた。
 

(っ痛…。)
 
 それでも、眉さえ動かさない俺をどう思ったのか。
 女の双眸が面白そうに眇められる。次には扇の先端を俺に向け、露になった紅の口唇が孤から窄めた形に変わり。扇にのせて、その息を此方に吹きかけた。
 

(…花の香り?)
 
 知覚した瞬間、視界が白く霞んだ。_淡く桃色がかった白に。
 
 
 
 頬を撫でる風の冷たさで、我に返った俺は。
 自分が見知らぬ場所に立っていると、理解させられた。_正しくは立ってはおらず、宙に浮いて、居た。
 暗闇を照らすのは、明るい月。それは、変わらない。
 だが、眼前に広がる光景は、一変していた。
 

一面、霞がかって感じる程に無数の、花、花、花…。
 月光に仄白く浮かぶ、それらは。薄桃色の雲にも見えた。
 

「…美しいであろ…。」
 
 最初から、気配の読めない女の声が、真横から聞こえる。
 振り向いた先で、女は見事な古木の幹に片手を添え、もう片方の手では、相変わらずに俺の左腕を掴んでいた。勿論、その裾の長い変わった型の衣の下にも足場は無い。彩の異なる綾絹を幾重にも重ねられた長衣は、見た目の質量を無視して軽やかに後方にたなびいていた。
 
 周囲の全ての樹は同じ種らしく、一様に濃茶色の幹に複雑な枝ぶりを持ち、全く葉の無い代わりに数多の白い花を纏っている。
 五つの花弁を持つその花は、単独ではそう判らない薄い色を持ち、全体で捉えて初めて淡い桃色を呈す。女が寄り添う樹の花だけは、他より若干色濃くも見えた。
 

(……………。)
 
 どう、答えるべきだろう。それ以前に、己の措かれた状況をどう考えるべきなのだろう。
 俺は、丁度花霞の只中に浮いている。地上からは、自分の身の丈に勝る高さに居る事になる。掴まれた腕が己を支えている訳でもない。見えない足場が有る感覚もない。ただ、立位の姿勢で居るだけ。
 そもそも、此処は何処なのか。_少なくとも、こんな場所もこんな花を咲かせる樹も、俺は心当たりが無いのだ。
 

「…っつーか、夢?」
 
 一人呟く。
 

「…まだ云うか。思いのほか愚かじゃのう。そなたは酔うてもおらぬし、まして寝呆けて夢を見ておる訳でもないわ。」
 
 心底呆れたふうな女の言葉に、違和感を覚える。
 俺は、たった今口に出す前まで、それらの言葉を音にしていないのだ。
 

(馬鹿な、まさか…)
 

「ようやっと、気付いたのか…。これ以上の阿呆なら、有利には気の毒じゃがこのまま私の、糧にするところじゃ…」
 
 そう、女は声を発してはいない。口唇は動いているが、音としては知覚されていないのだ。直接、意識に響く言葉。
 向き直った俺の眼前で、薄く笑んだ女は優雅に扇を揺らしていた。
 強い風も無いのに、背後の樹の花が舞い散って行く。
 
 だが、この女が何者であるかを探るより先に、俺は確かめなければならない。
 自分が二回目も聞き間違う筈はない。いや、感じない筈も無い。常と差異を覚えたのは、相手が本来は自分と違う言語を操っている所為だろう。
 

「…何故、陛下の名を?」
 
 自然と己の声が低くなる。
 女は、益々その笑みを深めた。
 

「…有利は、私達皆の愛し子じゃ…。」
 
 扇で、指し示された先には。
 華やかで、嬉しげな笑い声を上げる女達が近づいて来るのが見えた。
 何れも、横の女に似通った形の妙齢の者達が、地を進む誰かにまとわり付いている。勿論、様々な高さで浮かびつつ、だ。
 
 見え無くても、俺にはその中心を成して一人地を踏み歩むのが誰か直ぐに判る。
 他の事象の全ては最早、瑣末な問題だ。_何処でも何故でも、構わない。
 
 「ユーリっ」
 
 何より大切な名を呼ぶ。
 _しかし、彼はこちらを見ない。
 それどころか、周りの女達も見てはいない。
 
 彼の漆黒の双眸には、ただ闇に白く輝く花が映っているのみ。
 闇に広がる花霞の中、佇む彼は儚い夢にも似た、侵しがたい美しさで。
 
 俺の息を詰まらせる。
 

「ユー…リ…?」
 
 側まで来て、女の背後に立つ樹を眺める彼は、薄く頬を染め双眸をやや潤ませていた。

_それはまるで………腕のなかに収めた時の熱を孕んだ時に見せる特別な顔に似ていた。
 名を呼び思うさまにその身を掻き抱き、己が身で彼を隠してしまいたい。あんな表情を他の者の目になど、晒したくない。押さえきれない情動が身体を支配する。
 だが、そんな俺を嘲笑うかに、身体は全く地へは降りず。喉では音を阻む何かが息のみを通していく。
 
 俺を捉える女が添う樹の前、少し開けた場に佇み花を見上げる彼に。
 女達は皆、同じ金茶の目を眇め、一斉に扇を舞わせた。
 彼に降り注ぐ、幾多の花弁。
 淡い色彩の舞う中で、彼がゆっくりとそれらを受け止める如く、両手を広げるのが見えた。
 

(ユーリ…。)
 

「…さて、時間切れじゃ。」
 
 俺の左腕に添えられていた女の手に力が籠もる。強引に向かい合わせられ、吐息がかかりそうにまで迫った女は嫣然と嗤い、閉じた扇で俺の頬を撫でた。
 

「有利は我らが幼き頃より見守って参った、愛し子。蕾を綻ばせたのが橘に属すモノなのは、腹立たしいが…、致し方あるまい。ヨザックとやら、努々有利を悲しませるでないぞ。もし、そうなれば…」
 
 「姉様、よいではありませんか。」
 
 不意に真横からも、女の声を感じる。
 
 「そうです。このような男、此処で姉様の糧としてしまえばよいのです。」
 
 気付けば。彼に群がっていた女達が俺を取り囲んでいる。
 優雅な所作で扇を弄び、彼に対するものとは間逆の凄艶な笑みを模った緋色の唇は、どうやら俺を始末してしまう事を《姉様》_つまり、俺を掴んだまま放さない女に_勧めている。
 

「…ふむ。さすれば、有利は今まで同様にこの先も毎年、我らに会いに来れるやもしれぬのう…。」
 
 女の手がそろりと、俺の首筋にずらされる。触れられた太い血管から、何か熱いモノが抜かれる感覚が襲う。動かせない身体は冷たく凍え、徐々に思考する力さえ奪われていく。
 これは、本格的に不味いかもしれない。夢であれば問題ないが、夢であったとしても現実の自分に何か問題が起っている可能性が高いと思われた。_例えば、実はもうとっくに窓から転落して失血中だとか。
 
 何とか動く瞳に彼を映す。
 

「ユー…リ…。」
 
 掠れた声が確かに音となった瞬間。
 彼が不思議そうに俺の方へ視線を彷徨わせ、囁いた。
 
 「ヨザック?」
 
 同時に、飛来した小刀らしき硬質の物体が、一斉に彼を振り返った女達と俺を切り離す。
 真近の幹に突き立っているのは、鮮やかな緑色の柄。
 
 「ちと、オイタが過ぎるのではないか?桜の姫よ。」
 
 突然男の声が真後ろに聞こえ、俺の両肩に手が置かれる。その姿を確かめる間も与えられず、俺はその場から地へ降ろされた。しかし、己の足が土を踏んでいる実感は非常に心許ないあやふやなものだ。それでも、冷えていく一方だった身体に熱が戻り、安堵する。
 肩に乗った手が静かに離され、俺の正面に声の主が、ゆっくりと落ち着いた物腰で回り込んで来た。
 
 それは、俺よりも黄味がかった柑橘色のゆるい巻き毛を無造作に垂らした、深緑の眼を持つ男。その双眸と同じ色の衣を身に付けた、年の頃は百三十歳前後に見える背丈もそう変わらぬ整った目鼻立ちの男は、俺を一瞥した後、上方で固まっている女達を見据えた。
 俺を連れて来た女が前に進み出る。が、降りて来る気は無いらしかった。
 

「橘の…。」
 

「…我は、まだ眠い。斯様な騒ぎは、ご勘弁願いたいのだが?」
 ―まして、界が違うとは云え我が眷属の者に手出しするのなら、それなりの覚悟が有るのでしょうな?―
 
 男の声音は何処までも穏やかではあるが、そこに潜むのは、女達とはまた異質の底知れない強さだと俺に伝える。
 

「私はただ…、有利を奪う者にほんの少々、意趣返しを…」

大人びていた女の態度が、急に童女のそれに変わっていく。

「姫の少々は、度が過ぎまする。無理な渡りをさせただけでも、現し身には堪えるというのに…。」
 男は、俺の左腕、女がずっと掴んでいた上腕に手を添える。_途端に流れ込む温かい何かは、数泊で俺に満ちた。呪縛が解けたかに、身体は軽くなる。
 思わず、彼に駈け寄ろうと一歩踏み出した俺を、男が首を振って制した。
 彼は、未だ俺が囚われていた虚空を見詰めている。
 

「…ま、とにかく。我は眠い。此の者は還しまするぞ。」
 再び女に向き直った男が、その手を伸ばし何かを促す。女は整った眉を僅かにしかめ、男の側に寄ると扇を手渡した。
 去り際、俺を睨め付けると、『忘れるでないぞ。』と囁いていく。
 
 

「…さて、と。…では、参るか。」
 男が、俺に触れている手に微かに力を込めた。
 
 「ユーリ。」
 
 最後にもう一度だけ、彼の名を呼ぶ。
 

「…気の所為だよなあ。此処に居る訳ないのに。…今頃、どうしてるんだろ…。」
 
 見えても聞こえてもいないらしいのに、俺の立つ方に顔を向けた彼は、綺麗に微笑み、一人ごちた。
 

「来年は、一緒に観に来よっか…、なぁ…ヨザック。」
 
 
 来た時と同じに霞む視界のなかで、彼の声だけはやけに鮮明に聞こえた。
 隣の男が深い笑みを浮かべるのが判る。
 

「…そうだな、我からもおぬしに願う。あれが、いつか完全にそちらの者になっても、たまには我らの所にも寄越して欲しい。」
 ―姫と同じ事は、言わずとも分かっておろう?仮にも《右の橘》に属す者よ。―
 
 
 
 

「………っ。」
 頬を撫でる冷えた夜気に、眼を開けた俺は。自分が寝台に横になって居ると知った。開け放した窓の外には月。左手には、酒の容器を握ったままである。
 

(………夢?)
 
 だとすれば、自分は随分と想像力が逞しくなったと云えるのではないか。彼のあの表情が眼に焼きついている。最後に聞いた、言葉も。
 自然と頬が弛むのを自覚する。多少、危機的状況に陥った部分も有ったが、夢なら問題無い。
 浮上した気分で、俺は窓を閉める為に身を起こそうと、何気なく右手を動かした。

(…んんん?)
 指先にひんやりとした柔らかく薄いモノが触れている。
 慌てて半身を起こした俺は、其処に有ったものに呆然とした。
 
 
 其れは、葉の無い一枝に咲き誇る淡い桃色がかった白い花と、その周りに落ちた数枚の新緑の葉。
 
 
 閃いた意識を直接打つ、声は。
 
 
 「努々、忘れるでないぞ?」
 
 
 去り際の男が、不敵な笑みと共に残したモノだった。
 
 
 
 
 
 _あの時。
 眞王廟での彼と猊下の会話は、こう続いていた。
 

『…でもさぁ、花見も後何回出来るか分かんないと思うと、しっかり楽しんでおこうって気になるから、不思議だな…。』

『渋谷…。』

『や、そんな顔すんなよ、村田。変な意味じゃないって。高校卒業して、本格的にこっちで暮らし始めたら、おれきっと桜の開花なんて忘れちゃうんだろうなぁ…って思っただけ。そんなの、普通に社会人になってもあるじゃん。一旦独立して家を出ちゃうと、近所の桜を見る機会無くなりそうだし。』

『そうだね。ま、渋谷の場合、夢中になると色々忘れそうなのは確かだね。でも、大丈夫。僕は覚えておくから。きっと、お兄さんも、…桜も、ね。』  

 

 

 

 

 

六天ノ王」の葉美さん(文章)と鵺斗さん(挿絵)から、私の進学祝いとして頂いたものです。と言うより正しくは、BBSで「宜しかったらお立ち寄り下さいー。」とお知らせ頂いたお話に私が感激し、葉美さんに頼み込んで頂戴したんです。そうしたら、鵺斗さんまでイラストを付けて下さって…。本当にお二人はお優しい方たちです。有難うございます!!

 お話も、ヨザユ好きにはたまりません。しつこいようですが、通じ合ってる二人が大好きですーっ!有利は植物たちにまで愛されているんですね。そうですよねぇ、今時珍しいくらい、いい子ですもんね。私もヨザックの次に大好きですよ!(←コラ)

 イラストも素敵です。憂いを帯びた表情といいますか……。拝観した瞬間、あまりの綺麗さにゾクッときました。でも、かっこよくもありますし。凄いですよねぇ、本当。絵が下手くそな私は、羨ましい限りです。