ほら、忘れもの ガチャリ、と鍵の開く音が闇夜に響いた。 母がドアを開けるのに続き、美和子も重い足をひきずってマンションに入る。 無人だった部屋は当然、真っ暗だったが、ちっとも怖くなかった。むしろ、この部屋を明るく照らされることの方が、今の美和子にとっては恐ろしかった。けれどそれが叶うはずもなく、母によって電気をつけられる。 照らし出されたそこは、出っていった朝の状態のままだった。すっかり冷め切っている食べかけの朝食、脱ぎ捨てられたように床に落ちている母のエプロン、そして、テーブルにポツンと置かれたままの手錠。 美和子はフラフラとテーブルに近付き、その二つの鉄の輪を手に取った。僅かに重みがくる。それに比例するように胸に泣きたい気持ちが込み上げてきたが、涙はもうすっかり使い果たしていて、目からは何も零れなかった。 「お父さん……」 呟くと、朝食の皿をシンクへ運んでいたらしい母がこちらを向く。 「……あぁ。それも、警視庁に返さないとね……」 伸びてきた母の手に、思わず手錠を胸に抱え込んだ。 頭上から、困ったような、疲れたような母の声が降ってくる。 「美和子」 「やだ!」 「気持ちはわかるけど、それは警察のものなの。私達が持っていちゃいけないのよ」 目線を合わせるように腰をかがめてくる母に対し、無言で必死に首を横に振った。 事故当時父が身につけていたものは全て、事件解決のためにと警察に持っていかれた。そのうえこの手錠まで取り上げられたら、父が警察官だった証がなくなってしまいそうで。 しばらくの沈黙の後、部屋に母の溜め息が響いた。 「わかったわ、今は取り上げない。でも、明日になったらそれはお父さんの仕事場に返しにいくからね。約束よ」 そう言い残し、母はテーブルから離れていった。 翌日、美和子は警視庁にいた。 母は前日の言葉通り、手錠を含め家にあった父の警察関係の物を返しにいった。それについていった美和子は、最後まで手錠を手に握り締めていたが、結局大人の言うことには逆らえず、また昨日の約束もあり、手錠を手放した。 「それじゃあ目暮さん、私たちはそろそろ失礼します」 頭を下げる母に、物品を預かった男も深く頭を下げる。 「目暮」という名は父から何度か聞いたことがあった。きっとこの男のことだったのだろう。 「さ、美和子。帰るわよ」 空いてしまった両手のうち片手を母に引かれるが、美和子は両足に力を入れた。 「美和子」 「私、けーじになる」 「え?」 声を上げたのは母だったが、男も驚いたように見下ろしてくる。 美和子は叫ぶように再度言った。 「私がけーじになって、お父さんの代わりに悪い奴を捕まえる!」 「美和子……」 スッと目の前に大きな影ができた。顔を上げると、いつの間にか目暮がすぐ傍まできいた。低い、静かな声が降ってくる。 「美和子ちゃん、刑事の仕事は、苦しくて辛いよ」 「それでもなる!お父さんだってやってたんだもん、私も頑張る!!」 自分よりもはるか高い位置にある顔に向かって、必死に訴えた。窓から差し込む逆光のせいで目暮の表情までは分からなかったが、そんなことは構わない。 「そうか。それじゃあ……」 目暮の手元で、ジャラ、と音がした。日光が反射して鈍く光る二つの輪。 「これは、君の忘れ物ということにしよう。お父さんがお家に忘れて、君が本庁(ここ)に忘れていった。だからこの忘れ物は、君が刑事になってここに取りに来るまで、私が預かっておこう」 「……。ほんと……?」 呟くと、男がしゃがんで美和子の手を取った。 「ああ。約束だ」 しゃがんだせいで陽が当たったその顔は、とても優しく微笑んでいた。 「何なのよ、一体……」 デスクについた美和子は、周囲に聞こえない声でボソリと呟いた。 やっと念願の警視庁捜査一課に配属になったというのに、どうにも先ほどから周囲の視線を感じる。女刑事に対する物珍しさか。はたまた、自分の顔に何かついているのか。 少々不快に思いつつ、ダンボールの中身をデスクに引っ張り出していると、背後に人の気配を感じた。 「本当にここまで来たね、佐藤君。たいしたものだ」 かけられた声に、ガタッと慌てて椅子から立ち上がる。 振り返り礼をとろうとしたが、相手に差し出された物に意識を奪われた。 少し錆びがついてしまっているが、見間違えるはずもない。 「ほら、忘れものだ」 そう言って笑う目暮の顔は、あの日と変わらず優しかった。 |
あとがき お題からも分かるように、目暮警部の最後の一言を書くための話だった…のですが、佐藤さんが刑事になることを決意した瞬間まで描写することに。何だか物凄い捏造をしてしまった気がする…。(苦笑) 27巻「本恋3」を参考に書きました。相変わらず使用するネタが古くてすみません! |