可愛さのベクトル

 

 

 フォンヴォルテール卿は今、必死に戦っていた。と言っても、所謂(いわゆる)剣を抜くような戦闘ではない。戦う相手は自分。一言で言うなら「葛藤」だ。

 立ち尽くしたままの彼の視線の先には、つぶらな瞳の子猫がいた。それも、古びた土鍋に入って丸まっている。なぜそんなところに入って丸まっているのかは不明だが、この光景がとにかく可愛い。可愛い物好きの魔族の心を鷲掴みしてくる。丸まったままこちらを見ているその子猫に、今すぐ駆け寄りたい気持ちで一杯だ。

 が、彼は今にも動き出しそうになる自分の足を必死に止めていた。それはもう、全身の力を総動員して。なぜならば、それはどう見ても罠だったからだ。

 にゃんこ入り土鍋を取り囲むように、巨大なザルとそれを支える木の棒。そして木の棒に結わえられた糸は、人々が恐れる毒女の研究室内へと続いている。明らかに、小鳥等を捕まえる罠の大きい版だった。

 これは罠だ。罠だと判っていてわざと向かっていくのも、時と場合によっては勇敢だ格好いいと称されるかもしれないが、今は単なる自殺行為でしかない。そして自分は、そんなバカなことは絶対にしない。

 フォンヴォルテール卿が、改めて心中で決意を新たにした瞬間。土鍋の中の猫が、彼に向かって初めて鳴いた。

 

「めぇー」

「〜〜〜っ!!!」

 

 フォンヴォルテール卿は、自殺行為を犯した。

 

 

 

「おは、おは、おはははは!」

 近付いてくる高笑いに、グウェンダルは小さく息を吐いた。わざわざ振り返って確認せずとも、この珍妙な笑い声の主など一人しかいない。

 それより何より、全てに対する彼のやる気を失わせたのは、近寄って手を伸ばした途端、土鍋の猫が煙のように消えてしまったことだった。もう、抵抗することさえ面倒に感じてしまう。

 巨大ザルの目越しに、仁王立ちするアニシナの笑みを見た。

「どうですか、グウェンダル!このわたくしの計算されつくした完璧な罠は!……まぁもっとも、貴方は元々愚かですから、単純な罠でもあっさりひかかったでしょうけれど」

 どう見てもバレバレの古典的な罠だった、と喉まで出かかった言葉を、グウェンダルは呑み込んだ。そんなことを言っては、判っていたのに罠にはまったのかと、更にバカにされるのがオチだ。

「土鍋にいた子猫が……消えたのだが」

 放心状態のまま呟くように言えば、あぁ、と鼻で笑われた。

「なるほど、貴方はその中に子猫を見たわけですか。貴方らしいというか何というか。この土鍋はわたくしの発明品、その名も『思わずポッとなるぞうくん』!ちなみに陛下が偶にお使いになるエー語では、鍋を『ポット』と言うようです」

 名付けのセンスが親父ギャグ化しているように思うのは、グウェンダルの気のせいか。

「この土鍋は、これを見る前に『可愛い』と思ったものの幻を見せる代物です。もっとも、その幻に触れればすぐに消えてしまいますが」

 言われてグウェンダルは思い出す。確かにここを通りがかる前に、中庭の隅で子猫を見かけて少し戯れた。土鍋にいた猫と種類も一緒だ。

「……実用性は謎だが、何だか凄い品だな」

「そうですか?まぁ、発明者はわたくしですから凄いのは当然ですが、この罠の素晴らしい出来栄えに比べれば、少し劣りますね」

 いや絶対にこんな罠より土鍋の方が上だろう、とはフォンヴォルテール卿の心中だけでの呟きだ。

「さぁ、そんなことよりグウェンダル!わたくしとの楽しい“もにたあ”の時間ですよ」

「何!?ちょっと待て、アニシナ!私はお前のもにたあになって楽しかったことなど一度も……――」

「何を今更照れているのです。まったく、照れなど、男が持つ感情の中でも三本の指に入る愚かなものですね。さぁ、観念なさいグウェンダル!貴方はもはや完全に包囲されている!」

 警備兵ではなく、巨大ザルに。

 

 ツカツカと靴音を高らかに響かせて近付いてきたアニシナは、あれだけ素晴らしいと自画自賛していた罠の一部である巨大ザルを、乱暴に掴んで投げ飛ばした。視界を覆っていた網目が消え、今度はハッキリと毒女の姿が見える。実験できる喜びに微笑むその姿は、歩く恐怖以外の何物でもない。 

 逃げようとしたグウェンダルだったが、素早い動きで後ろから羽交い絞めにされ、その見た目の華奢さからは想像もできない怪力でもって、研究室へと連れて行かれる。いや、運ばれるという表現の方が正しいか。

 もにたあになるのは本気で嫌だ。が、この状態で彼が本気で暴れてしまえば、そこは男と女、力の差でグウェンダルがアニシナを怪我させてしまう恐れがある……と、少なくともグウェンダル自身はそう思っている。

結局、本気で彼女の拘束を解けないフォンヴォルテール卿は、口で何とか抵抗を試みた。

「そっ、そうだアニシナ!グリエがお前に編み物を教えて欲しいと言っていたぞ!丁度、奴は今国に帰ってきているし、昔の私の時のように教えてやってはどうだ!?」

 こんなところで部下の名を出して逃げようとするのは、普通ならば卑怯だと自ら自粛するが、あの女装好き敏腕諜報員の場合は別だ。何しろ、グリエは真実、アニシナに編み物を教わりたがっていたし、実際に教えてもらえるとなれば、体をくねらせて喜ぶだろう特殊な男なのだ。

 しかし対するアニシナは、顔色一つ変えずに小さく鼻を鳴らした。

「何をバカなことを。わたくしは忙しいのですよ?実験とか研究とか、実験とか研究とかっ!」

「……要するに、実験と研究しかないんだな」

 彼女の反応から、既に希望は八割方断たれたと悟ったグウェンダルは、遠い目をしてとりあえずつっこむ。

 そしてやはりアニシナはアニシナで、そのツッコミを真正面から受け止めた。

「その通り!わたくしは常に、この眞魔国を発展させるために忙しいのです!今も昔も、わたくしが実験の手を止めるのは、そうするだけの価値があると判断した時間のみ!グリエにもそう伝えておきなさい」

「そうか、わかった。伝えておこ……ん?」

いよいよ完全に逃げる希望が断たれたグウェンダルは、諦念から覚悟を決めつつ頷きかけたのだが。

アニシナのとある言葉が引っかかり、自由な首だけで彼女の方を見た。

「……今、何と言った?」

 すると、心底呆れたという顔をした相手が足を止める。そこはもう既に毒女の研究室の入り口で、引きずられているグウェンダルの膝から下だけが、まだ廊下にあった。

「グウェンダル、貴方ついに耳まで弱くなったのですか?まったく、情けない。浅学なだけでも問題だと思っていたのに、五官の機能まで低下するようでは、いよいよお仕舞いですね」

 やれやれとばかりに首を振った彼女は、引きずっていた手を離すと、グウェンダルをその場にしっかりと立たせる。そして両手を自身の腰に当てると、明るい水色の瞳でキッと長身の彼を見上げてきた。

「いいですか?今も昔も、わたくしが実験以外に時間を割くのは、そうするだけの価値があると判断した事のみだと言ったのです!!」

「……」

グウェンダルは今度こそ、言葉を失う。

彼女の言うことが本当ならば、昔自分が彼女から編み物を教わった時間は、つまり……?

 

 

 前方からペチン、という軽い音が響き、フォンヴォルテール卿は我に返った。

 見下ろせば、幼馴染が自分で自分の額を掌で叩いたらしい。

「これは失態!この毒女アニシナとしたことが、素晴らしい発明品を廊下に放置してきてしまうとは」

 言って、彼女は再びこちらを見上げると、ビシッと廊下を指差した。

「グウェンダル。『思わずポッとなるぞうくん』を今すぐ取ってきなさい!誰かに盗まれて発明者を名乗られては手遅れです!さぁ、早く!!」

「あっ、あぁ……」

 受けたばかりの精神的な衝撃が強く、逃げる云々の思考がすっかり飛んでしまったグウェンダルは、彼女の指示に素直に従う。

 そのまま身体の向きを変え、先ほど罠にはまった場所へ歩を進めた。が、不意にその足が止まる。

 土鍋を見詰めたフォンヴォルテール卿の思考は、いよいよ完全に停止した。

 

「グウェンダル!何をしているのです、さっさと持ってきなさい!」

 研究室から顔だけを出して一喝してきたアニシナの声にビクッと反応し、グウェンダルは慌てて土鍋に駆け寄る。一も二も無く両手を土鍋の上空に突っ込んで幻影を消すと、鍋を抱え上げ部屋に戻った。

「まったく、ボケッとして。また子猫にでも見とれていたのですか?」

 土鍋を受け取りながら、本日二度目となる呆れたような視線を送ってくるアニシナに、グウェンダルは曖昧な返事しか返せなかった。

 

 

 

 言えるはずがない。

 土鍋の上に、両手を腰に当ててふんぞり返る幼馴染の姿が見えた、だなんて。

 

 

 

 

あとがき

 やっぱりグウェンダルは、アニシナさんには弱いのですよ、きっと。(笑)そして見上げられた日には、やっぱり可愛いと思ってしまうのですよ、きっと。(笑)

 土鍋に入っている猫というのは、最近ネット上で流行っているらしい動画からネタを頂きました。もっとも、私はテレビで紹介されているのを観て知ったので、実際にその動画は観ていないのですが。(苦笑)でもテレビで観ただけでも、確かに可愛かったです〜。

 

 

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