もう、全てが手遅れだ。 引き返せないところまできてしまっている。 今更、どうにもならない。 “僕等”には、あの方法しかないんだ。 たとえ、一瞬でも渋谷を……彼らを裏切ることになろうとも。 こぼれた水は もどらない? 「お呼びですか、げーか」 窓辺に立ち、少し離れた場所に位置する血盟城を眺めながらの村田の思考は、部屋に響いた声によって中断させられた。 声の主はグリエ。昨日、自分自身がフォンヴォルテール卿に「箱の封印の儀式の前に、ヨザックを僕のところへ寄越してくれない?」と持ちかけたことを思い出す。 やってきた男の様子は、普段と全く変わらなかった。大事な儀式当日だからと気負っている風でも、緊張している風でもなく。だが気を抜いているわけでもない。いつも通りの、陽気で飄々とした彼だ。無論、その下には驚く程冷静な、鋭い獣の一面も隠れているわけだが。 「……猊下?」 無反応の村田に、お庭番が怪訝そうに首を傾げた。直接それを見たわけではない、窓に映った逆の像だ。 「ねぇ、ヨザック。地球には、『覆水盆に返らず』って言葉があるんだ」 「……はあ」 背を向けたままの村田の突然の言葉に、ヨザックの曖昧な返事が返ってくる。それでもそれは、「は?」という疑問ではなかった。脈略もなく話し出す村田に、お庭番が慣れてしまったという証拠なのかもしれない。 「その言葉がどうかしたんですか?」 「この言葉の語源はね、結構昔に遡るんだ」 語源なんて訊かれてもいないのに、話し出す。 胸に渦巻く不穏な感情を、誰かに吐き出してしまいたかった。けれど、全てをそのまま話すわけにはいかない。だから、別の形で。 「昔、とある夫婦がいたんだ。夫は毎日、読書に耽ってばかり。そんな夫に愛想をつかして、妻は離縁を申し出て去っていった」 「うわっ、猊下も気をつけないと、将来その夫みたいになっちまうかもしれませんよ?」 お庭番の茶々に振り向きはしたが、薄い笑みで受け流す。 とても調子を合わせる気にはなれなかった。 「……そうして月日が流れ、夫だった男は仕事で昇進した。すると、出ていった女が再び戻ってきて、復縁を求めてきた」 「そりゃまた単純な女で」 「男もそう思ったんだろうね。そこで、彼はこうした」 ベッド脇のサイドテーブルに歩み寄る。そこに置かれていた水差しをつかむと、村田はそれをひっくり返した。 「ちょっ、猊下!?」 「戻して」 「……は?」 村田は濡れた床を指差す。 「こぼれた水を元通り器に戻すことができれば、復縁しよう。男は女にそう言った。勿論そんなことは不可能だ。困り果てる女に向かって、男は言った」 『自分たちはこの水と同じだ』 「一度こぼれてしまった水が器へ戻らないのと同様に、一度別れてしまった自分たちは夫婦には戻れない。……手遅れだ、と」 女は自分の軽率さを悔やみ、死ぬまで悲しみ嘆いたという。 「そういった経緯で、『覆水盆に返らず』は、一度別れた夫婦が元の仲に戻れないこと、転じて、一度起こってしまったことは取り返しがつかないってことを言うようになったんだ」 夢も希望もない、何て残酷な言葉だろう。 けれど、恐ろしい程に現実を映している言葉だとも思う。 暫く考えるように黙ってこちらを見ていたお庭番が、不意に口を開いた。 「それは、時間がかかってもいいんですかね?」 「は?」 「もしそれでもいいんだったら、オレ、この水を元に戻せますよ」 どうやって?と問う間もなく、お庭番は意味あり気に笑って一礼すると 扉の向こうに消えてしまう。何かを取りにでもいくのだろうか。 仕方なく、村田は独り背後の窓に寄りかかった。少しでも後方に視線をずらせば、先程と同じく血盟城が見えるはずだ。 ―――渋谷……。 これからの封印の儀式のことを考えると、再び胸が痛んだ。 箱から漏れだした創主の力は、半端な量ではない。きっと、“彼”は今日現れる。そうなれば、渋谷や周囲の皆にとって、試練の日は近い。―――無論、自分が彼らを裏切る日も、また。 たとえその後全てが上手くいき、自分の裏切り行為の理由が明らかになったとしても。自分は彼らと今まで通りの関係には戻れないだろう。こぼれた水と同様に。 それでもやらなければならない。それが自分と“彼”との約束であり、創主を葬り去る唯一の方法なのだから。 「猊下―、お待たせしましたー」 再び部屋に戻ってきた男は、何やら掃除機のようなものを担いでいた。だが、形が微妙に違うし、全体の色も寒々しい青だ。 「やっぱりここの倉庫に眠ってましたよ、これ。じゃーん!アニシナちゃんの発明品、『どんなものでもすっかりポン!と凍らせましょう。大魔動装置“レイトウくん”』です」 眞王廟で働く女性たちのために毒女が贈呈したのだとか、結局使い道がなくてすぐに倉庫行きになっただとか、尋ねてもいないことを喋りながら、お庭番がてきぱきと村田の前を動く。 掃除機……いや、レイトウくんの吸い込み口を床上の水に向け、スイッチらしきボタンを押す。すると、吸い込み口から激しい音を立てて風が吹き出してきた。どうやらあれは、吸い込み口ではなく吐き出し口だったらしい。風はその名の通り、こぼれたままの水をあっという間に凍らせてしまった。 続いてお庭番は、懐からトンカチを取り出す。これには見覚えがあった。散々この廟の巫女さんたちに奉仕した成果だろう。ヨザックはそのトンカチで、できたばかりの氷を叩く。そうしてそれらが粉々になると、かき集めて元々水が入っていた水差しに全て入れた。 「後は この氷が全て溶ければ、水は元通りですよ」 ね?と笑顔を向けられる。まるで、だから元気を出せとでも言わんばかりに。 情けないけれど、すぐには言葉が出なかった。いや、今だけではない。彼がこの一連の作業をしている間も、村田はただ呆気にとられて見ているだけだった。 信じられない。昔から言われ続けてきたことわざの理屈を、こうも軽々と飛び越えてしまうなんて。 けれど、実にこのお庭番らしい。 思わず本音がこぼれた。 「羨ましいな……」 「え?」 もっと詳しく言えば本当は、この故事が展開されたのは野外だ。こぼされた水は地面に染み込んでいき、女は泥しかすくえなかったという。だからこのお庭番の言う方法も、本当はこの故事の場面では通用しない。 けれど、あえてそれは言わなかった。そんな事が問題なのではない。 村田は小さく首を振った。 「何でもない。さあ、そろそろ本題といこうか。今日は君に重要な役をやってもらうかもしれないからね」 言って、相手に向けて笑顔をつくる。こうすれば、聡いこのお庭番はこれ以上踏み込んでこないと知っていた。 そして彼は、予想に違わぬ言動を返してくれる。 「これはまた、えらく長い前置きでしたねぇ。……で、『かも』というのは?」 「もしも緊急事態が起きたら、ってこと」 そんな事態、起きない方がいいけれど。きっと起こるのだろう。 「眞王廟に仕掛けをしておいたんだ。君に、その起動を頼みたい」 こぼれた水だって、その気になれば元に戻せる。 本当に、そうだったらいいのに。 その翌日。 「ごめん、渋谷……」 暗い眞王廟の中。 呟いて、僕は彼の背を押した。 闇色の触手が伸びる、その場所へ。 フォンクライスト卿は、あの本の記述に気付くだろうか。 渋谷は、創主に打ち勝つことができるだろうか。 ――こぼれた水(じぶん)は、器(彼ら)の中にもどれるだろうか。 |
あとがき マニメの「闇の鼓動」(ラスト側は「太陽と月」)の話です。 「闇の鼓動」でのムラケン君とヨザックのコンビネーションには驚かされました。どうにもマニメはこの2人がセットになる傾向が強いようですね。逆に原作では最近、庭番と有利の絡みが多いだけに、マニメを見ていると時々モヤモヤします。(苦笑) それにしても、私の書くムラケン君の話はシリアスになりがちで申し訳ない……。もっと楽しそうな彼も書いてあげたいんですけどね。 |