Look forward to 夕食も済んだこの時間にドラゴンフライの練習をしてくると言ったのは、自分の記憶の羽根がレースの優勝賞品であるからという理由だけではなかった。今朝方出会い、嬉しそうな笑顔で自分を必要としてくれた、知世という少女の期待に応えたいという思いもあったからだ。 今日のように発進して数秒で地面に墜落するような事態には、したくない。せめて、目指した所までちゃんと飛び続けられるようにならなければ。 「こうやってハンドルを切ると、失速せずに曲がれるんです」 マシンの隣で辛抱強く丁寧に教えてくれる声に、頷く。 食卓に着いていた旅のメンバーに練習したい旨を告げると、自分でよければ教えようと小狼が名乗り出てくれた。夜に女の子一人で外に出るのは危ないとファイもそれに頷き、テーブルの上からは「モコナも一緒に練習するー!」と元気な声が上がった。黒鋼は腕を組んで座ったまま、頑張るのはいいが無茶はするなと、小さく笑って見送ってくれた。 「こうやるのね!」 少しでも皆の期待に応えなければと、気負っていたせいもあるのかもしれない。力が入りすぎたままの手で勢いよく回したハンドルに、小狼が小さく笑った。 「ゆっくりでいいんですよ、姫」 優しい声と共にハンドルへと伸ばされた彼の手に、他意など無かったのだろう。その証拠に、互いの手が触れたと思った次の瞬間には、ぱっとその手が離される。 「すっ、すみません!」 「う、ううん!わたしの方こそ……」 慌ててサクラも手を引っ込めるが、心臓の方は騒がしく音を立てた。どうにも顔に熱が集まってきている気がしてならない。チラリと見上げた小狼の顔も、心なしか朱に染まっているように見えるのは、自惚れだろうか。 「うふふ〜」 突然上がった笑い声に、はたと左を見下ろした。マシンの淵に陣取っていたモコナが、嬉しそうにこちらを見ている。 「モコナ、お邪魔虫みたいだから、ちょっと離れてるね!」 「えっ!ちょっと、モコちゃん!?」 「モコナ、別に……!」 引き留めようと小狼と揃って声を上げた時には、既にモコナはその場を飛び降りて、ピョンピョンとマシンから距離を空けてしまっていた。 こんな風に取り残されては、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。それは小狼も同じらしく、困ったように頭をかいている。 シン、と降りた気まずい沈黙はしかし、すぐに破られた。それは、空中にいくつも浮かんでいる、映像を映し出す不思議なパネルによって。 わぁっ、と歓声のような大きな音が流れてきて、二人はその発生源を見上げた。画面には、その声の正体だろう多くの観衆と、ステージに立つ一人の女性が映っている。確かこのパネルは、さっきから様々なニュースを放送していたはずだ。 観客に向かって手を振る女性の像をバックに、アナウンサーの流暢な声が流れていく。内容は、人気アイドルが誕生日を記念してのコンサートを行ったというもので、それに相応しく、大きなケーキを前に嬉しそうファンに感謝を叫ぶアイドルの笑顔でその話題は締めくくられた。 「凄いですね……。きっと、すごく人気のある方なんでしょうね」 映像中のファンの熱狂ぶりにだろう、思わずといったように呟いた小狼に、サクラはふと気づいたことを口にした。 「そういえばわたし、小狼君の誕生日、知らない」 「え?」 驚いたように小狼が振り向く。 「小狼君だけじゃない、黒鋼さんやファイさん、モコちゃんの誕生日も」 見上げると、これまでの事にでも思考を巡らせたのだろうか、少し不自然な間を空けて小狼が応えた。 「……そうですね。言われてみれば確かに、そういう話はしたことが無かったですね。残念ながらおれも、黒鋼さん達の誕生日は知りませんが、おれの誕生日は四月一日です」 「えっ?ほんとに!?」 返った答えの思わぬ偶然に、つい声が跳ねた。 「すごい!わたしと同じ!わたしもね、誕生日が四月一日なの!」 笑ってくれるだろうと、思った。 彼と誕生日が同じだと知って嬉しくなった自分と同じように、彼もまた、喜んでくれるだろうと。これまでだってそうだったから。自分が嬉しかった時、彼もまた、一緒になって喜び微笑んでくれた。 けれどその予想は見事に裏切られた。いや、正確にはそうは言えないのかもしれない。小狼は、笑ったのだから。 だが、その笑顔はサクラの予想したようなものではなかった。まるで何かに耐えるような、痛みを伴う笑み。 「……小狼君?」 「さぁ、練習を再開しましょう、姫。さっきの説明の続きですが……――」 問いかけも、そのままの笑顔で流されてしまった。さっきと変わらぬ丁寧な説明が響くが、今度はそれらがあまり耳に入ってこない。頭半分で聞きながら、小狼の横顔を見つめる。 さっきとは違う理由で、心臓がドクドクと脈を打った。今の笑顔は、どういう意味だろう。自分は何か、とんでもないことを口走ってしまったのだろうか。 問いかけたい衝動を、必死で押し殺す。訊いたところで、黙ってさっきの笑顔を浮かべるだけだろうと何故だか分かった。だったら、もうあんな辛そうな顔をさせるようなことはしたくない。 ――小狼君……。 「では、実際に試してみましょうか」 動揺を悟られないようにと必死に言葉を並べ、視線もマシンだけに向ける。もう説明することも尽きたという段になって、ようやくサクラを見下ろした。 すると、彼女はどこか焦点の合わない目で、自分を見ている。 「姫?」 怪訝に思い覗きこめば、ようやくその瞳に色が戻った。 「あっ、は、はい!分かった、今のを実際にやってみるのね」 わたわたと姿勢を正し、ハンドルを握り直す。危なっかしいその様子に一旦止めようとしたのだが、小狼のその声は、いつの間にか戻ってきていた白い生物によって遮られてしまった。 「サクラ、レッツ・ゴー!」 「うん!」 「いや、そんなに慌てたら!」 嫌な予感ほど当たるとは、よく言ったもので。 勢いよく踏み込みすぎたアクセルにより、一人と一匹を乗せたマシンはあっという間にトレーラーへと激突した。 上がった悲鳴と派手な音に、トレーラーの中にいた二人も顔を出す。謝るサクラに、ファイはいつものように笑い、黒鋼は心底不安そうに頭を抱えた。 今日はその辺にしておけとの黒鋼の言葉に頷き、その日の練習は終了となった。サクラがマシンから降り、代わりに小狼はそちらに近寄る。 「じゃあ、片付けてきます」 言って、マシンに手を伸ばそうとすると、彼女から待ったがかかった。 「片付けもわたしにやらせて。自分のマシンだもの、少しでも慣れておきたいの」 真っ直ぐな瞳でそう言われれば、否やを唱えられるはずもない。マシンを押して離れていく彼女の背を、独り見送った。モコナはもう、黒鋼たちに付いてトレーラーに戻っている。 「誕生日……か」 周囲に置かれたライトの当たっていない暗闇に向かい、ひっそりと呟いた。先ほど無理やり押し込んだ感情が、独りになった途端、再び迫り上がってくる。 あの瞬間、果たして自分は彼女に対して上手く笑えていただろうか。 彼女に初めて誕生日を尋ねられたのは、サクラの誕生会を終えて帰る時だった。育ての親である藤隆に拾われる以前の記憶が無いため分からないと言えば、返ってきたのは明るい笑顔と思ってもみない提案。 「だったら、わたしが決めてもいい?お誕生日」 そしてサクラは、自分と同じ四月一日を、小狼の誕生日だと言った。そうすれば、同じ日に祝うことができる、と。 更に。 「小狼君が昔のこと覚えてなくても、これからは私が覚えてる。小狼君と一緒に過ごしたこと、遊んだこと、お祝いしたこと、みーんな覚えてるよ」 だから一緒に、たくさんの素敵な思い出をつくろう。 そう言ってくれた彼女は今、皮肉にも過去の記憶を失っている。羽根を集めれば少しずつ戻ってくるものの、彼女が覚えていると言った二人で過ごした日々はもう、彼女の記憶には二度と返らない。 構わない、と小狼は頭を振った。サクラが忘れてしまっても、自分が忘れない限り、あの日々が失われることはない。無かったことになど、ならないのだ。 あの日彼女が自分に言ってくれたように、今度は自分が覚えている――二人で過ごした思い出を。 ――だから、大丈夫。 「小狼君!」 呼ばれ、顔を上げた。片付け終わったらしいサクラが、ぱたぱたと走ってくる。 「待っててくれたの?もう中に入っててくれてよかったのに」 「いえ、そういうわけには」 首を振れば、サクラが小さく笑って礼を言う。 サクラも戻ったことだし、置いていたライトを片付けようと一歩踏み出せば、「小狼君」と呼び止められた。 振り向けば、サクラが真っ直ぐにこちらを見ている。ライトの当たらない薄闇の中でも、彼女の翡翠の瞳は綺麗に輝いていた。 「一緒にお祝いしようね」 「え?」 「誕生日。国によって流れている時間も違うみたいだから、うまく四月一日を迎えられる日がくるかは分からないけど。でももし、旅の中でその日を迎えられたら、その時は一緒にお祝いしようね」 「姫……」 思わず相手を見詰める。 半歩、サクラがこちらに近づいた。 「わたし、小狼君と同じ誕生日で嬉しいの。だって、自分の誕生日に、誰かに『おめでとう』って言われるだけじゃなくて、小狼君にも『おめでとう』って言える。祝われるだけじゃなくて、小狼君のこともお祝できるんだもの」 また、半歩。 そうすればもう、彼女との距離は無いに等しかった。至近距離で、サクラが見上げてくる。 「だから、これから小狼君と誕生日を迎えられる日が凄く楽しみ。その時は一緒に、思い出に残る楽しい日にしようね」 言って、ふわりと笑う。 本当に彼女は変わらないのだと、今更ながら改めて思った。 記憶がなくても、根本は変わらない。いつだって、自分だけでなく誰かのことも思い遣れる人。自分一人の幸せよりも、多くの人が幸せになることを喜ぶ人。 そしていつだって、自分は彼女の言葉と笑顔に助けられている。昔も、今も。 「おれも、楽しみです。とても」 今度は上手く笑えている自信があった。何しろ、意識しなくても勝手に頬が緩んでいくのだから。 対するサクラは、何故だか一瞬目を見開いたが、次の瞬間には彼女も心底嬉しそうに笑った。 それは、あの日と変らない、春の日だまりのような笑顔だった。 あのニュースのアイドルのように、沢山の人から祝福されるのはきっと幸せなことだろう。けれど、沢山じゃなくても、たった一人でも、自分のことを祝ってくれる人がいれば。祝いたいと言ってくれる人がいれば。それだけで、充分幸せだ。 そんなことを口にすれば、彼女が「一人じゃないでしょ?」と笑った。 「わたしだけじゃない。ファイさんも黒鋼さんも、モコちゃんも。みんな小狼君のこと、お祝いしてくれるわ」 あぁ。自分は、充分過ぎるほど幸せ者らしい。 |
あとがき 誕生日ネタなのに、祝うシーンは全く無いという…。(苦笑)ホリックの12巻を拝読した時から、書きたいと思っていた話でした。 原作のコマの隙間を埋める話はよく書きますが、コマそのものを描写するのは相変わらず緊張します。特に今回の、二人の手が触れ合うシーンは、普段この手のものを書き慣れていないので「ひーっ!」と思いながらの作業でした。(笑) サクラちゃん、小狼君、(そしてホリックでは四月一日君も)ハッピーバースデー! |