迷うこと、惑うこと

 

 

PM1127。あと30分もすれば今日が終わろうかというこの時間は、警視庁の明かりも暗い。庁内に残っているのは当直か居残り残業組ぐらいのため、節電として必要最小限の電灯しかつけられないのだ。
 そんな薄暗い中、一課の大部屋にも、先ほどで言う後者に当たる人物の影が一つ、あった。

 

「はぁ……」
 やっと最後の書類になったというのに、居残り組の高木は、浮かない顔で一つ息を吐いた。
 彼が書いているのは“始末書”。本日やらかしてしまった失態についてである。

 

ここ、本庁捜査一課に配属されてから一ヶ月が経とうとしているが、はっきり言って、失敗の連続。

所轄所でのいくつかの実績があるとはいえ、本庁と所轄では扱う事件の内容が異なる。となれば当然、捜査の勝手も違ってくるわけで。結局、新米同然の状態になってしまっていた。

今日だって、決して手を抜いたわけでも 気を緩めていたいたわけでもないのだが、そのやる気は彼を嘲笑うかのように見事に空回ってしまい。先輩の佐藤のフォローで何とか事なきを得たが、こうも失敗が続くと、ただでさえ少ない自信がますますなくなってしまう。

それに何より……――。

 

「なーんだ。最後の一枚じゃない」

「っ?!」

 突然耳元で聞こえた声に、高木は文字通り飛び上がった。

「さっ、佐藤さん!」

 慌てて振り向けば、高木の肩越しに背後から覗き込むようにして、上司が机上の始末書を眺めていた。

「あんまり深いため息ついてるから、まだまだ書類が残ってるのかと思ったわよ。 ほら、もうすぐ日付変わっちゃうわ。さっさと仕上げて帰りなさい」

「は、はい。というか、佐藤さんこそ、まだお帰りになっていなかったですね」

 未だドクドクと鳴っている心臓を落ち着かせながら、何気なく思ったことを口にすると、相手は少し苦笑する。

「ん?まぁ、ちょっと……ね。上の人に呼び出されてて

 言葉を濁すように言う佐藤に、高木ははっとした。

 突然の彼女の登場に動揺していたとはいえ、自分は何と馬鹿なことを聞いたのだろう。彼女がこんな遅くまで残っている理由も、彼女が上の者から呼び出される理由も、一つしかないではないか。

 高木の教育係というポジションにいる以上、高木が失態を犯せばそれは“教育不行き届き”の形として佐藤の失態にもなってしまう。おそらく、今日彼女が呼び出された理由はそれだろう。いや、今日だけではなく、今までだってきっと……。

彼女は何も悪くないのに。

フォローまでしてくれているのに。

 

「……すみません。僕のせいで、佐藤さんにまで迷惑かけてしまって……」

どうにも居たたまれなくなり、高木は無意識のうちに謝罪の言葉を発していた。

一方の佐藤は、自分のデスクに戻ろうとしていた足を止め、驚いたようにこちらを振り返る。そしてそのまま、しばらく じっ、と彼女に見詰められる。

ややあって、佐藤は盛大に溜め息をついた。

「いい?高木君。今から私が言う事、覚えておいて」

 ツカツカとこちらに引き返してくると、彼女は手近な椅子を引き寄せ腰を下ろす。

 彼女の真っ直ぐな瞳が、高木を射抜いた。

「“迷惑”ってはね、相手がそう感じて初めて成り立つものなの。高木君がいくら相手に申し訳なく思っても、その相手が迷惑に感じていなかったら、それは“迷惑”とは言わないの。……ちなみに、私は迷惑だなんて思ったこと、ないわよ?」

「佐藤さん……」

 驚いてその名を呟くと、彼女は笑う。

「ま、後輩の後始末は教育係の仕事でもあるしね。それに、どうせあなただって、いつかはこの役をやることになるのよ?……たくさん失敗した人はその分、いい指導者になれるわ。失敗した人の気持ちを理解してあげられるからね」

 佐藤は言って、椅子から立ち上がる。見下ろしてくるその顔は、いつもの凛としたものと言うよりは、少し年上の近所のお姉さんだとか、もっと言うなら母親だとか、そんな温かさがあった。

「大切なのは、同じ失敗を繰り返さないってことよ。わかった?」

「はい!」

 高木は頷きながら、心の中にさっきまで燻(くすぶ)っていた モヤモヤとした不安や悩みが徐々に晴れていくのを自覚した。

 彼女が本当に少しも迷惑に思っていないのかなんて、そんなことはわからない。だけど、彼女の優しい言葉と笑顔は、不思議なほどにすんなりと、己の心に溶け込んできて。

―――ありがとうございます、目暮警部!!

高木は胸中で、彼女を自分の教育係として指名してくれた上司に心から感謝の意を述べた。

こんな素晴らしい教育係に当たるなんて、そうそう無い。自分は何と幸せなのだろう。

そんなことを考えていたため、高木は気付かなかった。立ち上がったままの彼女が、ふと何気なく再び彼の始末書に目をやったことに。そしてその瞬間、ピクリ、と彼女の眉が跳ね上がったことに。

 

 

「……ところで」

 突然の彼女の言葉に、高木は現実へと引き戻された。

 声の主の方へと目線を再び上げた途端、彼の顔はヒク、と引きつる。

 そこにあるのは確かに笑顔。けれど、さっきまでのそれとは明らかに違う。

 何事か、と動揺する高木を余所に、彼女はその表情を保ったまま始末書を指差した。

「こことここ、書き方が違うだけど?」

「え?……あああぁっ?!」

 思わず高木は固まった。

 普通の間違いでもマズイ。が、しかし、この間違い方は、今の会話の流れからして、非常〜っにマズイ。

「このミス、前にもあったわよね〜?何度言ったら分かってくれるのかしら、この頭は〜〜〜?」

 佐藤が右手の人差し指で、グリグリと頭を押してくる。何よりも、顔に張り付いたままの笑顔が彼の恐怖を更に増大させる。

「すっ、すみません〜!!」
二人しかいない一課の大部屋に、情けないほどに高木の声が響く。

 彼の下庁よりも日付変更の方が早くなることが 確実となった瞬間だった。

 

 

 

 

 

あとがき

今回のタイトル、ぱっと見は意味深ですが、単に「迷惑」の2文字を分割しただけという……、苦し紛れにタイトル付けたのがバレバレですね。(苦笑)

 この話は、「会者定離〜会〜」を書いた後に、「その後はどうなるのかなぁ?」と、そのままの衝動で書きあげたものです。

本当は、この話の下書きのメモに「高木刑事の失敗事件内容は 後でじっくりと(考える)。」という、自分の走り書きがあったのですが、たまにはこんな風にぼかすのもいいかなぁ、と思い直しまして。こんな仕上がりとなりました。普段はそこも細かく書いちゃうから、長ったらしい話になるですよねぇ。(苦笑)

 

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