出来上がった飲み物をカップへと注ぐと、ふわり、湯気と共に辺りに爽やかな香りが広がった。 「いい匂いね」 つられるように、航海日誌へと向いていたナミの視線も上がる。そんな彼女に笑いかけ、サンジはカップをナミの元へと運んだ。 「どうぞ、ホットレモネードです」 「ありがと。今夜は冷えるから、助かるわ」 彼らの乗るメリー号は、本日夕方、秋島の気候海域に入った。天気も安定しており、ナミの予測では、明後日の朝には次の島に着く予定だ。 数回息を吹きかけて、ナミがカップに口をつける。その様を可愛らしいとサンジが見とれていると、ガチャリ、ドアノブが鳴った。 「ナミ」 顔を出したのは、外で鍛練をしていたはずのゾロ。開いた扉から、外の冷気が風と共に室内に侵入してくる。 ナミとの二人きりの空間を邪魔されたとサンジが顔を歪めるよりも先に、ナミの方が唇を尖らせた。 「ちょっとゾロ、寒いじゃない。せっかく温まりかけてたのに。早くドア閉めて」 「これぐらいで寒いって……ったく」 呆れ顔を浮かべながらも、ゾロが扉を閉める。 サンジはやれやれと言わんばかりに首を振ってみせた。 「わかってねぇなぁ、お前は。レディにとって冷えは大敵なんだよ。鈍くて無駄に頑丈なお前と違ってな」 「頑丈のどこが悪い?結構なことじゃねぇか」 肩を竦めながらゾロが三歩進む。そうすればもう、ナミの座る椅子は目の前だ。 ゾロの視線がナミの手元――航海日誌に降りた。 「やっぱりそれ書いてたか。ちょっと見せてくれ」 「え?」 声を上げたのはナミだったが、サンジも同じく胸中で首を傾げた。 サンジは何度か航海日誌を読ませてもらったことがある。ナミが度々、今のようにラウンジでそれを書くからだ。ウソップも偶に、ナミが書いているのを横から覗きこむことがある。だが、ゾロが航海日誌に興味を持つのは珍しいことだ。 いぶかしむようにナミが眉根を寄せた。 「どういう風の吹きまわし?明日は晴れだと思ってたのに、雪でも降らすつもり?」 「グランドラインじゃそれもあり得るんじゃねぇのか?いいから、ちょっと見せてくれ」 「見せてって……まだ今日の分は途中よ?」 「別に構わねぇ」 言うと、ナミの了解も待たずにゾロは日誌を覗き込んだ。 「うん」とも「ふむ」ともつかぬ声で、一つ小さく頷く。 「やっぱりそうか」 「ゾロ?」 「邪魔したな」 曲げていた姿勢を伸ばすと、ゾロはスタスタと去っていった。ガチャリ、来た時と同じようにドアノブが鳴り、やはり同じ音を立てて扉が閉められる。 ラウンジに残ったのは、数分前と同じくナミとサンジ。違うのは、呆然とした二人の顔だけ。 「何?今の」 「さぁ……」 いつもならば、「おれには藻類の考えてることなんてサッパリ」などという皮肉の一つでも吐いているところだが。突然すぎるゾロの意外な行動に、さすがのサンジも、いつもの悪態が浮かんでこなかった。 見上げる先は それから、一日が経った。 「ふーっ、さみぃ」 ラウンジの扉を開けると、昨夜と同じく夜風が吹き込んできた。吹き流される口元の煙を見送りながら、サンジはボソリと呟く。 明日の朝には見えているだろう秋島。昼間は涼しいと呼べる心地よい風も、日が落ちた夜ともなれば少し肌寒い。思わず両腕を擦りたくなるが、生憎現在、彼の片手は塞がっていた。丸形のトレイに載っているのは、今夜の不寝番への差し入れだ。 ラウンジにナミがいれば、素早く扉を閉めているところだが、彼女は既に日誌を書き終え女部屋へと戻っている。サンジが出たことで無人になったラウンジを背に、空いているもう一方の手でのんびりと扉を閉めようとした。 が、サンジのその動きは中途半端に止まる。 「……?」 何やってんだ? 思いはしたが、声には出さなかった。いや、出せなかったと言うのが正確か。その場の空気が、サンジにそれを許さなかった。 シン、と静まり返った冷気。響くのは、揺れる波の音だけ。見上げた先には、点々と散らばる星と、満月に少しだけ足りない月、そして、見張り台に立つ男。 男は、腰に下げた三本の刀のうち、一本を抜いていた。抜き身のそれを、月に向かって真っすぐに掲げている。ただそれだけ。微動だにしない。呼吸さえ、していないのではないかと思わせるほどに。 真剣な横顔が上空を見つめていた。その視線の向かう先は、鈍い光を放つ刀の先端か、その先にある月か、それとも、もっと別の何かか。 何をしている。何があった。何故そんなことをしている? 浮かんだ思考を振り払うように、サンジは小さく頭を振った。 くだらない。考えたところで何になる。 自分で自分に言い聞かせ、踵を返す。出直そう。幸い今夜の夜食は、冷めても味に問題の無いメニューだ。一緒に出す飲み物も、温め直せば大丈夫。 閉めずに中途半端になっていた扉を再び開こうとすると。 「命日だ、くいなの」 低い、静かな声が降ってきた。けれど、独り言にしてはやや大きい。 気づいていたのか。思い、当然か、とも思う。他者の気配に敏感なこの男、気付かないはずがない。 体を再び見張り台の方へ向ける。ゾロは刀を納めているところだった。闇夜にも目立つ、白い鞘。チン、と小さく鍔鳴りがする。 この男は今、「くいな」と言ったか。名の響きからして女性だ。 サンジの心中を読み取ったわけでもないだろうが、納めたばかりの刀の柄を撫で、ゾロが呟いた。 「親友だ」 親友。言われ、蘇ったのは、ゾロが鷹の目に向かって発した言葉。 『己の野望故。そして、親友との約束の為』 世界一の大剣豪になると約束した親友、きっとそれが「くいな」なのだろう。おそらくあの白鞘の刀も、「くいな」に関する物。和道一文字といったか、出会った時からずっと、この男の腰にある刀だ。 「くいな」のことは分かった。男の、刀を闇夜に掲げるという行動の謎も、推測ではあるが一応解決した。 けれど。 「……」 どう反応していいかは、分からなかった。 この男が慰めや同情を求めているとは到底思えない。何か言うべきか、それとも――。 「おい」 呼ばれ、意識が浮上する。 いつの間にかゾロの視線が、上空からサンジへと向いていた。いや、正確には、サンジの手元に。 「それ、夜食だろ?ボケッとしてねぇでさっさと持って来い」 「はぁ!?何だよ、その上から目線の物言いはっ!?」 「仕方ねぇだろ。見張り台の上にいんだから」 「そういう意味じゃねぇーよ!アホかてめぇは!?妙なところで天然ぶりやがって!」 「?」 訳が分からないといった風に小首を傾げる様は、いつもと同じだ。さっきの真剣な眼差しなど嘘のように。 「ったく!」と吐き捨て、サンジは今度こそラウンジの扉を閉める。歩き出し、けれど今日だけは、ゾロの上から目線の呼びかけに感謝した。――それがなければきっと、サンジはみっともなくただその場に突っ立っているしかなかっただろうから。 片手にトレイを載せたまま器用に縄梯子を上ってきたサンジは、不機嫌そうに夜食を置くと、やはり不機嫌そうにラウンジへと引っ込んでいった。 やれやれ。ゾロは軽く溜息をつく。 あのコックにくいなの命日のことを話したのは、別に、同情してほしかったわけでも、慰めてほしかったわけでもなっかった。そんなものは邪魔なだけだ。 あえて言うならば、後々の自分の日常のためだろうか。簡単にでも理由を提示してやらないと、妙なところで細かいあの男は、ゾロの行動の理由を独りでグルグルと考えるだろう。そうして結局答えは見つけられず、仕舞いにはそのことに逆ギレを起こして不機嫌になるのだ。そんな厄介事を見越し、先に説明しただけ。 ヒュッ。鋭い音を立てて、涼しいと言うには少し冷たい風が耳元を取り過ぎていった。遅れてピアスが小さく鳴る。そういえば、明日の朝には次の島に着くんだったか。確かナミが秋島だと言っていた。 軽い寒さを覚え、足元に置かれたトレイに視線を向ける。被せられている布をそのままにしているため、まだ中身は分からないが、受け取った時に微かに熱を感じた。夜食と一緒に並んでいるのだから、さすがにカップの中身は酒ではないだろうが、先に飲み物だけでもと布に手を伸ばそうとした。その時。 ガチャリ。 再びラウンジの扉が開く音がした。 「ほらよ」 ゴトリ、と眼前の床に置かれたそれは、ゾロの知る限りでもかなりの上物の酒だった。どこに隠し持っていたんだという疑問もあったが、それよりももっと素直な感想が口を衝いて出る。 「何だ?ガラにもなく、気でも遣ってんのか?」 「アホか。自惚れんな。何でおれがてめぇに気なんて遣わなくちゃならねぇんだ、無駄遣いだろ」 心底嫌そうに顔を歪めたサンジが、もう片方の手で、二つのグラスを置く。男によって磨かれたのだろうそれが、上空からの月光を反射して微かに光った。刀の見せるそれとは、また別の煌き。 「空の上にいるレディにだよ。てめぇはついでだ」 言い捨て、サンジはすぐに縄梯子を下り始める。もともと上半身だけを見張り台に載せ、足は縄梯子にかけたままだったため、金色の頭部はあっという間にゾロから遠ざかる。 「コック」 「あぁ?」 声を投げれば、既に縄梯子の中ほどを過ぎていたサンジが、面倒くさそうにゾロを見上げた。 ひどくむかつく、いつもの顔。ゾロとて、そう引きとめたいとは思わない。けれど、これだけは伝えなければ。 「感謝する」 ゆるく、サンジの目が見開かれた。 構わずに続ける。 「生きてりゃアイツも、酒を飲むような歳だ。きっと喜ぶ」 告げれば、サンジが僅かに口端を上げた。そして視線を縄梯子へと戻すと、ヒラリ、片手を振り、後はもう、こちらを見上げることもなくスルスルと下りていく。 ゾロも、もうサンジを引きとめることはしなかった。 ラウンジの扉が閉まる音を聞きながら、ゾロは酒の栓を開ける。瞬間、漂った香りに頬を緩め、二つのグラスにそれを注いだ。 チラリ、見上げた空には変わらない、満月に少し足りない月。くいなと約束を交わしたあの日は確か、奇麗な満月だった。 あの時と少しだけ違う、夜空。けれどあの時に誓った思いは、今でも変わらない。いや、むしろどんどん強くなっていると言うべきか。 視線を月から外し、ゾロはグラスを一つ掴む。 「乾杯」 小さく呟いて、もう一つのグラスにカチリと当てた。 |
あとがき お分かりの方も多いでしょうが、前半のゾロは、航海日誌の内容というより、日付をチェックしに来たのでした。「そういや、そろそろアイツの命日じゃねぇか?」と。 誕生日話に命日ものって…とも思いましたが、やはりゾロといえば、くいなさんのこと無しでは語れない気がしまして。こんな話となりました。 サンジ君のゾロに向かっての「妙なところで天然ぶりやがって!」という台詞ですが。51巻でのゾロとボニーの会話、「あたま大丈夫か!?」「まぁ怪我はしてねぇ」「馬―鹿!中身の話だよ!」等がいい例かと。(笑)あの場面でのゾロとボニーの遣り取り、好きです。 かっこよくて、でも奇跡の迷子&妙なところで天然という(笑)、素敵なギャップを持つゾロ、ハッピーバースデー!! |