「父さんを返せ!」

投げつけられた刃のような叫びを、

佐藤は黙って受け止めた。

 

分かっている。

刑事という仕事に、こういう面もあることを。

分かっていた……はずなのに。

 

 

水たまりを飛びこえる

 

 

 それは、太陽が南中を少し過ぎた頃だった。とはいえ、空を見上げれば眩しいはずのそれは見当たらない。その日は朝から雨が降っており、太陽はずっと黒雲に覆われたままだった。

 そんな雨の中、地道に担当事件の聞き込みにまわっていた佐藤は、ふと足を止めた。人の強い視線を感じたのだ。それも、憎悪のような負の感情を含んだ。

 見ればそこには、小さな傘を差した五歳ほどの男の子が立っていた。睨み上げてくる両目が、小刻みに震える傘を持つ手が、幼児の全身から湧き上がる怒りを伝える。

「君……」

 その顔に、見覚えがあった。

 半年前に佐藤が逮捕した男の、一人息子。

 

 

 

 男の一家は、男と妻と息子の三人家族だった。裕福ではないが、生きていくのに困る程の貧困さでもなく。それなりに幸せな家庭だったという。

 だが、一年前。男が保証人となっていた知人が、突然行方を晦まし。彼らの家には悪質な借金取りが現れるようになった。

 初めは何とか払えていたものの、段々と苦しくなり。それに合わせて、借金取りの脅しは激しくなっていき。半年前、遂に相手は男の息子に暴力を振るおうとした。我が子を守ろうとした男は、その借金取りを突き飛ばし。打ち所の悪かった相手は、死亡してしまった。

 正当防衛も考えられるケースではあったが、その後、男が事故死に見せかけようと細工をしていた点が裁判官の心証を悪くし。懲役五年の判決が下った。

 

 

 

 けれど、幼い子供にそんな事情を説いても分からない。

 父親は自分を悪者から助けてくれた。それだけが、この子供に分かる事実なのだ。

 

「返せ……」

 低く、小さく、子供が呟いた。

 そして今度は、強く、大きく。

「父さんを返せ!」

 張り上げられた声は、悲痛なほどに響き。その目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。

 周囲を通り過ぎる人々が何事かと視線を寄越すが、佐藤は身動き一つせず立っていた。ただただ黙って、その叫びを受け止める。

この幼児の言葉から耳を塞いではならなかった。元凶は、暴力を振るおうとした借金取りかもしれない。もっと遡れば、行方を晦ました男の知人も。けれど、その相手はどちらもいない。ならば、その怒りや哀しみは、目の前に存在する者に向けるほかない。それが赤の他人なら尚更、遠慮なく感情をぶつけることができる。

「父さんは僕を悪い奴から助けてくれたんだ!なのにお前は父さんを……――」

「やめなさい、達彦(たつひこ)!」

 突然割ってはいる声。買い物袋を持った女性が駆けてきて、子供の腕を掴んだ。

それは、この子供の母親―――男の、妻。

「だめでしょ、突然いなくなると心配するじゃない」

「だって母さん!あいつ……――」

「いいから やめなさい」

 今にもこちらに食って掛かろうとする幼子を、母親が身体を掴んで制する。そうして自分は、こちらをじっと見上げてきた。とても、苦しそうな表情で。

「……すみません、勝手なことを言っているとわかっています。でも、お願いします。私たちの前から早く……立ち去って」

「……」

 揺れる女の瞳を見詰め返した佐藤は、黙って二人に頭を下げた。深く、深く。

 そうしてゆっくり頭を上げると、踵を返し歩き出した。

未だに続く子供の叫びを、背に受けながら。

 

 

 

大丈夫だと思っていた。

刑事という仕事がこういう面を持つことは分かっていたし、覚悟もしていた。

自分が間違ったことをしたとも思っていない。

だから、こんなことがあっても大丈夫なはずだ。

なのに。

 

「どうかしたんですか、佐藤さん?」

一旦本庁へと戻った佐藤に、高木が心配顔で問いかけてきた。

それでもまだ、その時点では疑問には思わなかった。彼は今までにも、佐藤のことに関して妙に鋭いところがあったので。

だが、由美や白鳥、終いには間食中の千葉にまで心配されれば、さすがの佐藤も考えざるを得なかった。

 

 

「みんな何だっていうのよ。私は大丈夫だって言ってるのに……」

寧ろ軽い苛立ちさえ覚えながら、佐藤は再び聞き込みに戻っていた。いつも通りにしているのに、皆が心配顔で自分を見てくる。それは決して、心地いいものではない。

思考に全神経を使っていたため、周囲にまで注意が向かず。ズカズカと歩いていた彼女は、バシャ、という音で我に返った。

「……何なのよ、もう」

降り続いていた雨は止んでいたが、地面が乾くにはまだ時間が早く。佐藤の片足は、水たまりにのっていた。

小さく嘆息しながら足をどけようとした彼女は、固まる。落とした視線の先、水たまりの表面にあったのは、静かに広がっていく波紋と、自分の顔。

「……私、こんな顔してたの?」

 それは本当に自覚が無くて、けれどひどい顔だった。

 悲しそうな、疲れているような、悔いているような、泣きたそうな。色んな負の感情がない交ぜになった顔。

 こんな顔で普段どおりに振舞ってみたところで、相手に通用するはずもない。

「何……?私、もしかして落ち込んでるの?」

 分かっていたのではなかったのか。刑事として、こういうことも起こりうると覚悟していたのではなかったのか。

 けれど現実は、この水たまりに映っている。

 

「まだまだね、私も……」

 自嘲気味に呟き、目を閉じる。

 このままではいけない。こんな状態ではこれからの捜査に支障が出るし、皆にも心配をかける一方だ。

 思い悩むことを否定はしない。それは、人として当然のこと。

けれど、今の自分は刑事。今なすべきことは、他にある。

 

す、と目を開けた彼女は、足元の水たまりを飛びこえた。まるで、そこに映っていたさっきまでの自分を越えるかのように。

危なげなく着地した佐藤は、そのまま顔を上げ。

颯爽と歩き出すその姿に、迷いはなかった。

 

 

 

 

 

 

あとがき

 佐藤の日(ゴロ合わせで、3月10日)にアップするにはちょっと暗めの話でしたが、いかがでしたでしょう?一応、佐藤さんが話のメインになるよう心がけました 。

 事件もの(?)を書くのも、久しぶりでした。最近自主規制していたんですが、この話にはどうしても必要で…。判決の方も大分昔の知識なので、今と違っていたら申し訳ありません!!

 

 

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