名を呼ぶ温度

 

 

「船医さん」

 後甲板で薬草を広げている小さな影に声をかける。借りていた珍しい医学書数冊を渡し、手短に感謝と感想を述べたロビンを、相手は不思議そうに見詰めてきた。

 気になって、どうかしたのかと問えば、その顔が桜色の帽子と共に傾げられる。

「お前、まだおれの名前覚えてないのか?」

「いいえ。『トニートニー・チョッパー』でしょう?」

「知ってるなら、何でおれのこと『船医さん』なんて呼び方するんだ?」

「あら、そう呼ばれるのは嫌だったかしら?」

 一瞬の迷いも無く、ロビンの口はサラリとこの言葉を出した。

 触れられたくない、あるいは答えられないような質問には、自分も質問で返す。少々卑怯な手段だという自覚はあるが、これまでの生活でとっくに染みついてしまった反応だった。

 中には、「質問しているのは俺だ!」などとしつこく問い質してくる者もいたが、幸いなことに今回の相手は実に素直だった。「えっ!?」と小さく声を上げると、慌てたようにその場に立ち上がる。

「べっ、別に嫌じゃないけど!でも、だからって、『船医さん』って呼ばれるのがちょっと照れくさいとか、嬉しいとか、そういうわけでもないんだからな!コノヤロがっ!」

 クネクネと踊りながら、その可愛らしい姿には不似合いの暴言を発するトナカイを、ロビンは笑いを噛み殺して見守った。どうやらこれが、彼流の照れ隠しのようだ。実に興味深い。

「そう、分かったわ。でも、嫌じゃないのなら、今のままの呼び方で問題ないわよね?」

「う、うん。まぁな。でも、みんながおれのこと名前で呼ぶから、何となく違和感っていうか、くすぐったいっていうか……」

 言いかけたトナカイが、はた、と気づいたようにロビンを見上げる。

「じゃあおれも、お前のこと『考古学者さん』って呼んだ方がいいのか?」

 あまりにも純粋過ぎる思考回路。ロビンはとうとう声に出して笑ってしまった。

 おまけに「考古学者さん」という響きも、呼ばれ慣れないせいか妙にくすぐったい。成る程、さっき「船医さん」と呼ばれたこのトナカイも、同じようなくすぐったさを感じたのだろうか。

「えっ!?何で笑うんだ?」

「いえ、ごめんなさい。気にしないで。それより、私は別にその呼び方でも構わないけれど、あなたの呼びやすいものでいいのよ?」

「そうなのか?じゃあ、おれもルフィみたいに『ロビン』って呼んでもいいか?」

「ええ、勿論」

 そっか、と嬉しそうに笑うトナカイを見ながら、ロビンはふと思った。

 今までも、何人もの人間から「ロビン」と名を呼ばれてはきたが、こんなに温かな響きで呼ばれるのはいつ以来だろう。随分と久しぶりな気がする。

 威圧感や支配欲を滲ませた声、神経を逆なでするような声、憎しみや恨みが込められた声、怯えたように絞り出される声。ここ数年は、そんなものばかりだった。

 ……もっとも、かくいう自分も、誰かの名をこんな風に温かな響きで呼べる日など、決して来ないのだろうけれど。

 そう思うと、この船のクルーたちのことがほんの少し、羨ましい。

 

「じゃあ改めて、これからよろしくな、ロビン!」

 トナカイの小さな蹄の手が、ロビンに差し出された。

 握り返したロビンの掌に伝わるのは、向けられた笑顔や声の温かさに反し、ヒヤリとした微かな鉄の冷たさ。

 相手は蹄なのだから冷たいのも当たり前だけれど、その温度はまるで、自分の中の何かを表しているようで。

「えぇ。よろしくね、船医さん」

 自嘲しそうになるのを堪えた口はやっぱり、「チョッパー」とは形作らなかった。

 

 

 

「あ、起こしちゃったか、ロビン?」

 顔に痛みを感じて目を開けると、すまなそうに自分を見降ろしているトナカイがいた。左手には消毒液の瓶、右手にはピンセットと湿った綿。顔にできた傷の消毒をしてくれていたらしい。

 トナカイの背後に広がる室内を見渡して思い出す。自分たちは全員、無事にW7に戻ってこられたのだと。

 ガレーラの者たちが用意してくれた仮設住居で皆、崩れるように眠りに落ちたが、あれからどれくらい経ったのだろう。窓から差し込む陽光が、目に染みる。

「みんなは……」

「まだほとんど寝てる。サンジはさっき起きて、ガレーラのみんなが分けてくれるっていう食糧を見に出て行ったけど。……ほんとはまだ全然傷が治ってねぇから、あんまり動いて欲しくないんだけど、『おれはコックなんだよ』って、ちっとも聞いてくれねぇし……」

 諦めたように溜息を吐きながら治療を続けるトナカイ自身も、身体のあちこちに包帯を巻きつけていた。

 小さい人獣型の身体で、ベッドの柵から身を乗り出しながら、横になっているロビンへと必死に治療の手を伸ばしている。この状態なら本来は、人型になった方が治療しやすいのだろうが、おそらく人型に変形するようなエネルギーはまだ彼も戻っていないのだろう。

 傷も疲れもまだまだ癒えていないはずだが、それでもこうして自分や仲間のために治療してくれている。

 

「ありがとう――……チョッパー」

 少しの逡巡の後、呟いた。瞬間、トナカイの治療の手が止まる。

 丸い大きな目に無言でじっと見詰められ、気まずさや気恥ずかしさで、ロビンは思わず苦笑した。

「やっぱり、『船医さん』って呼ばれる方が好きだった?」

 尋ねると、トナカイがブンブンと首を横に振る。その目には既に薄っすらと涙が浮かんでいて、柵を乗り越えてきた小さな彼に、そのまま首筋へと無言で抱きつかれた。

 

 

 

 

あとがき

 前半は、ロビンちゃんが仲間になったばかりの頃のイメージです。原作ではすぐに空島編になるので、こんな会話をする隙も無さそうですが、アニメでは空島編に入るまでに少しスパンがあったので、一応そちらの設定ということで。(笑)

 スリラーバーク編でロビンちゃんがみんなを名前で呼んでいるのを見た時は、本当に嬉しくなっちゃいました。

 

 

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