ニコニコさんとイライラさん。

さて、勝つのはどちら?

 

 

ニコニコさんと

イライラさん

 

 

「あぁっ、もう!」

 取り調べ室から出てきた佐藤は、自分のデスクへ戻ると乱暴に椅子を引っ張り、ドカッと座った。

 イライラする。どうしようもなく腹が立つ。

 

 

 

 つい先ほどまで佐藤が取り調べ室で向かい合っていた被疑者の男は、中年の男性を一人刺殺していた。

 動かぬ証拠をかき集めて提示しても、のらりくらりと言い逃れようとする。その男の態度に、とうとう佐藤の堪忍袋の緒が切れた。

『いい加減にしなさいよ!』

 立ち上がり、思わず目の前の机に固めた拳を叩きつける。

 

 刺された男には、妻と娘がいた。三人家族。

 遺された、家族は。

 父親という存在を奪われた、その家庭は。

 これから、どんな絶望の中で生きていくのか。

 自分はそれを、少なからず知っている。

 

『あなたはっ!』

 奪っただ。一つの、命を。一つの家庭の、幸せを。

 喉まで出かかったその言葉を、必死の思いで呑み込んだ。感情的になってはいけない。

 自分は今、私情を挟もうとしている。この事件の被害者の家族を、自分の体験と重ねようとしている。

 それは、なんて自分勝手で、傲慢だろう。

 

 佐藤は、握りしめていた手をゆっくりと開いた。同時に、細く長く息を吐き出す。

『千葉君、代わってくれる?私、ちょっと外で頭冷やしてくるわ。私の代わりも、すぐに誰か呼ぶから』

『わ、わかりました……』

 傍らに立つ後輩に言って、取調室を出る。扉から一番近い席に座っていた同僚に頼むと、快く自分に代わって取調室へと入ってくれた。

 

 

 

 そうして、先ほどの台詞に戻る。

「あぁっ、もう!」

 イライラする。座った佐藤は、机に片肘を立てて手のひらに顔を埋めた。

 あの被疑者の男にも腹が立つけれど。

 何よりも腹が立つのは、自分。

 自分は、何をしているのか。私情に流されることなく公務を執行すべし、なんて、使い古されているぐらい警察にとって当たり前のことなのに。

 

「お疲れさました」

 不意に、聞き慣れた声が降ってきた。穏やかな、声。

 相手がどんな表情をしているのか容易に想像がついて、だからこそそれを見るのが嫌で、佐藤は顔を上げなかった。

 コト、と脇で小さな音がすると同時、立ち上るコーヒーの香りが彼女の鼻を突く。

「別に、まだ取り調べは終わってないわ。私が抜けさせてもらっただけ」

 顔は上げないまま口だけを動かせば、「ええ、知ってます」とあっさり相手は答える。さっきの様子を、扉の覗き窓からでも見たのだろうか。取調室は防音にはなっているが、机を力一杯叩いてしまったから、振動で扉が揺れたのかもしれない。そうなれば、あの部屋に注目が行ってもおかしくはないだろう。

 それに何より、高木もこの事件の概要は知っていた。被害者の家族のことも、勿論。なぜ佐藤がこんなに苛立っているのか、高木はきっと予想がついている。

 

 それなのに。

「さすがですね、佐藤さん」

 そんな言葉を、相変わらず穏やかな声で発するものだから。思わず佐藤は顔を上げて相手を睨みあげた。

 やっぱり予想通り、穏やかにニコニコと笑っている高木。イライラしている時に、自分とは正反対のこんな顔を見せられては、余計に腹が立つ。

 だから、見ないようにしていたのに。

「……『さすが』?どこが?捜査に私情を持ち込んで、危うく被疑者を罵るところだったのよ」

 ギリギリで踏みとどまったけれど。それでも、そうしたいという感情が出た時点で既に、刑事として問題だ。

 睨む佐藤をちっとも気にせず、けれど高木のニコニコとした表情が少しだけ変わった――不思議そうなものに。

「私情?本当にそれは、私情になるですかね?」

「は?」

 予想外の応えに、佐藤の苛立ちが一瞬削がれた。

 怪訝そうに見詰めれば、高木が言葉を探すようにゆっくりと注釈を入れる。

「僕は、佐藤さんの私情というよりも、人として当たり前な情……つまり、人情?それに当たるじゃないかと思うですけど」

「人として当たり前な……情?」

 鸚鵡返しの佐藤に頷き、高木は続けた。

「刑事は人間でいちゃいけない、なんて言う人もいますけど、僕はそうは思わないです。だって、被害者だろうと被疑者だろうと、人間でしょう?人間を相手にする仕事なんですから、刑事(こちら)も人間でいていいじゃないでしょうか」

 言って、高木は佐藤を見下ろす。ニコ、と再び笑った。

「だから僕は、佐藤さんみたいに人間味溢れる人情派の刑事がいたって、いいと思うです」

 だから「さすが」だって言ったですよ。

 そう言って笑う男を、佐藤はただ黙って見上げた。相手も、ただ黙って見下ろしてくる。ニコニコ、ニコニコと。

 この男はきっと知らないのだ。また彼の言葉が、佐藤の気持ちを救ってくれたということに。

 高木は本気で「さすが」だと思って、だからこの言葉を発しただけなのだろう。「慰めてあげよう」なんて驕りや打算は、欠片もなく。

 

 佐藤は小さく笑った。

「……ほんと、敵わない」

「は?」

 キョトンとする高木に「何でもない」と片手を振って、彼が運んできてくれたコーヒーに口をつける。

 その香りにはリラックス効果があると聞くが、その時には既に、佐藤の胸中は穏やかだった。

 

 

 

 

 

ニコニコさんとイライラさんの勝負。

勝者は――ニコニコさん!

 

 

 

 

あとがき

 一応、ゴロ合わせの佐藤の日(3月10日)記念だったり。(苦笑)いつの間にやら二度目の佐藤の日を迎えてしまいました。この選択お題に1年以上もかけてしまっているという証拠です。何てこと!(苦笑)残り一つとなったお題は、今年の春が終わるまでにはきっと。

 「は●刑事人情派」?そんなツッコミが聞こえてくるー。(笑)

 

back2.gif