変わらない温かな夕陽色の実に触れて、ようやく「しまった」と気付いた。 けれど、もう遅い。 「あれ?ナミさん」 空から降り注ぐ陽の光を浴びて、眩しく輝く緑の葉。その隙間から顔を覗かせた金髪の彼は、やっぱりその口に煙草を銜えていた。 偽・デジャビュ 麦わら帽をかぶったドクロを旗に掲げるこの海賊船は。船首の可愛らしさが海賊と不似合いなのと同様に、蜜柑の木という、これまた不似合いなものを乗せていた。そしてそれは、この船の女航海士の宝でもある。 彼女は、その木の世話を自分で行っていた。ルフィという名の害虫の相手こそサンジに任せていたが、それ以外の手入れは彼にもやらせずに。 故郷の村でもかつてはよく手入れをしていたので方法は心得ているし、何より、大好きな人が育てた大好きな木だ。自分の手で育てたいと思っているのも、その理由の一つではあった。けれど、もう一つ、彼女がサンジに蜜柑の手入れをさせない理由がある。 「何……してるの」 内心の感情を抑えた声でナミが問えば、サンジの片方しか覗いていない目が軽く見開かれた。 「何って、ナミさんの蜜柑の手入れで……」 「私、前に言ったわよね。サンジ君はルフィ達から蜜柑を守ってくれればそれでいい、手入れは私がやるからって」 海を渡る風が、ぶわりと吹き付けた。互いの髪が風に踊る。瞬間、ナミの鼻を突くのは二種類の香り。 思わず握っていた両の拳に力が入った。が、それでもまだ、彼女はこの時点では耐えられていた。無理やりにでも平静を装っていられた。 なのに。 「そりゃあ、確かにそうだけど。でもおれは別に、『恋の警備』も『恋の手入れ』も、どっちもやって構わないんだぜ、ナミさん」 木を間に挟んでこちらを覗きこんでいたサンジが、「あ!」と呟いて笑う。 笑って、今ナミが最も聞きたくない台詞を見事に吐いた。 「ひょっとして、二つもやらせたらおれに悪いって、気を遣ってくれてる?優しいなぁ、さっすがナミさん!!好きだー!」 「黙って!」 思わずナミは怒鳴った。彼女の中で、何かがプツリと切れる。 あぁ、だから彼がこの木の傍にいる時は近寄らないようにしていたのに。思いながらも、握った拳の微かな震えは止まらない。 蜜柑が放つ柑橘系の香り。 煙草の匂い。 何のてらいも無く発せられる「好き」の言葉。 どれも、今は亡き彼の人のものとは違うと分かっているのに。どうして思い出してしまうのか。どうして姿が重なるのか。 『 大好き 』 最期の瞬間までそう言って笑った、蜜柑と煙草が大好きな――あの人と。 ナミの故郷であるココヤシ村は、ルフィ達によってアーロンの支配から解放された。それは紛れもない真実であり、同時に、殺された彼女の養母、ベルメールの仇討ちも叶った。 けれど。だからといって、彼女の心の傷が完全に癒えたかといえば、こたえは「否」だ。今でも養母が目の前で撃たれたシーンは鮮明に記憶に残っているし、夢に視ることもある。 仇討ちを果たした今、これからはその記憶も少しずつ薄れていくのかもしれないが、完全に忘れることなど出来ないだろう。いや、忘れるつもりも彼女にはない。 そして昨夜も、彼女はあの日の夢を視た。 大好きな人の、真っ赤な真っ赤な、最期の瞬間。 『ノジコ!ナミ!――大好き』 あの場面を夢に視たばかりだというのも、影響していたかもしれない。湧き上がる感情が抑えられない。 サンジへの言葉が、止まらない。 「何度も言わせないで!私がやらなくていいって言ってるんだから、サンジ君は手入れなんてしなくていいのよっ!必要以上にベルメールさんの蜜柑に触らないで!!」 ぶつけるように、言葉を吐いた。卑怯だと知りながら、顔さえも上げられない。相手がどんな表情で自分の言葉を聞いているのか、見るのが怖かった。 少しばかり落ちた沈黙に、肩で息をするナミの呼吸音だけが響く。 「……そっか。そうだね」 不意に、サンジが口を開いた。 恐る恐る地面から視線を上げれば、煙草を銜えた口元が笑っている。 「ナミさんの言う通りだ。出しゃばったことしてごめんね、ナミさん」 けれど、その瞳にはどこか、悲しげな色も含まれていて。 咄嗟に口を開きかけたナミだったが、彼女がそうするよりも早く、サンジの足は踵を返していた。コツコツと革靴の音を響かせて、階段を下りていく。 結局ナミは、離れていく黒いスーツの背中を、ただ見送ることしかできなかった。 立ちすくんだままその場を動けずにいると。サンジの靴音がラウンジへと消えるのを待っていたかのように、その声はした。 「ひっでーなぁー」 驚いてナミは振り返る。サンジがいた木とは別の木の陰から、麦わら帽子がひょっこりと現れた。あぁ、だから船が静かだったのか、と今更ながらナミは思う。 前甲板では確か、ウソップが新しい弾の開発をしているはずだった。ルフィがちょっかいを出すせいで騒がしくなることも間々あるが、基本的にその作業中の彼は、集中していて静かだ。ルフィがここにいるのなら、静かで当然。 メインマストに背を預けて眠るゾロが静かなのはいつものことであるし、偶に出る鼾や寝言だって、そう大きいものではない。 強めの風が再び吹いた。彼女の鼻に香るのは、蜜柑のみ。 麦わら帽を飛ばされないように片手で押えながら、ルフィが立ち上がる。 「サンジの奴、別に悪いことしてたわけじゃねぇーのに。なんで怒鳴るんだ?」 責めるというよりも、心底不思議そうな顔で訊かれた。 ナミは、ゆるりと双眸を閉じる。 「……そういうあんたは、此処で何やってんの」 「え!?あっ、いや!おれは別に、蜜柑の盗み食いしようとしてたなんてことはねぇーぞ!うん!ほんとに」 慌てたように白々しい言葉を並べる始めるルフィの弁を、けれどナミは頭半分でしか聞いていなかった。 ぽつり、呟く。 「……分かってるわよ」 そう。わざわざ言われずとも分かっている。サンジは何も悪くない。ひどいのは、悪いのは、八当たりめいたことをした自分。 それが分からないほど愚かでもないが、感情を抑えられるほど利口にもなれなかった。そう、ぼんやりとナミは思う。 「あっ、ほんとか?いやー、よかった、よかった。そーなんだよ、おれは蜜柑なんて狙ってないって!」 冷汗もそのままに、引きつった笑顔を浮かべるルフィ。そんな彼を余所に、ナミは瞼を開けると、目の前の蜜柑の木へ手を伸ばした。 ラウンジの扉を開ければ、サンジは珍しくテーブルに向かっていた。今後の食糧の配分でも考えていたのか、手元の紙には食糧の名や数字がズラリと並んでいる。 顔を上げたサンジが、ナミを認めてすぐさま立ち上がった。 「ナミさん、さっきはほんとにご……」 「これ」 続く言葉を遮るように、ナミは両手を差し出す。そこに載るのは、温かな夕陽色をした実、二つ。 「……ナミさん?」 「これで美味しいお菓子を作って私と一緒に食べてくれたら、許してあげる」 少しばかり相手から目を逸らして告げた。どうしても、さっきの気まずさは拭えない。サンジはサンジで、驚いたようにナミの手元を凝視してくる。 「それって……おれもナミさんの蜜柑を食べていいってこと?」 静かに問われた。 勿論、ナミとしてはそのつもりだ。さっき理不尽に怒鳴ってしまったことへの詫び。 けれど、だからといって、「はいそうです。さっきのお詫びです」と言ってしまえるような素直さなど、生憎持ち合わせてはいない。 否定も肯定もできずナミが反応に窮していると、不意にサンジが笑った。 本当に、この男はどこまでも他人の感情に聡いと思う。 「了解、ナミさん。とびっきり美味しいの作るからね」 それじゃ、これはお預かりします。 そう言って恭しくナミの手から蜜柑二つを受け取ると、サンジはジャケットを脱いでキッチンへと立つ。止まりかけた時間を動かしてくれた彼に心中で感謝しながら、入れ替わるように、ナミはテーブルに着いた。 もうサンジの中でメニューは決まっているのか、軽く水で表面を洗うと、彼は早速蜜柑に包丁を入れる。ラウンジ内に、柑橘系の香りが一層広がった。その爽やかな香りに微かに混ざる、煙草独特の香り。 ココヤシ村のあのキッチンも、やはりこんな匂いだった。思いながら、ナミは両目を閉じる。懐かしいそれらを、今度は苛立つことなく素直に受け入れられた。 素直ついでに、もしサンジの作った菓子が本当に美味しかったら、「さっきはごめん」の一言ぐらい言ってみようかと思う。 もっとも、悔しいことに、彼の作ったものが美味しくなかった試しなど、一度もないのだけれど。 |
お題:「寝覚めの悪い夢」,「重なる姿」,「素直」 |
あとがき 名前が登場したメンバーで分かっていただけるかとは思いますが、イメージとしては、結構初期の頃の話です。グランドライン突入よりも前……かな。 11巻のメリー号紹介を初めて拝読した時、蜜柑の世話は基本的にナミさんがやっているという記述があり、「サンジ君じゃないんだ」と意外に思った覚えが(笑)あります。 |