黒猫が前を横切ると、不吉なことが起こる。

 そんなことを言っていたのは、誰だったか。

 

 

Pure superstition

 

 

 その日、ヨザックの目の前を一匹の黒猫が駆け抜けようとした。

 いや、正確には。

「姫さま?」

 黒猫に扮した、人間の少女だった。

 赤茶の髪から覗く、黒の猫耳。同じく黒色をしたワンピースの裾が、振り向いた拍子にフワリと揺れる。

「あ、グリ江ちゃん!!」

「どうしたんです?その格好」

「えへへー、黒猫さんだよ!どう?似合う?」

 スカートにくっついている長い尻尾を胸元に抱き込みながら、少し照れたように少女が見上げてくる。どこかの強面可愛いもの好き閣下が見れば、速攻でノックアウト間違いなしだ。

 そのつぶらな瞳に視線を合わせるように、ヨザックはしゃがみ込んだ。

「ええ、とっても。あんまり可愛いから、グリ江、ちょっと嫉妬しちゃうわ―」

 大げさに拗ねてみせれば、可笑しそうに少女が笑う。

 その顔にもう一度扮装の理由を問うと、思い出したように「あっ!」と少女が声を上げた。次いで、差し出される右の掌。その行動の意味を理解するよりも先に、少女の元気な声が響く。

「トリック・オア・トリート!」

「……はい?」

 満面の笑顔に返せたのは、そんな間の抜けた一言だった。だが仕方ないだろう。突然、意味不明な単語の羅列を言われた者の反応としては、決して間違ってはいないはずだ。

 けれどやはり、ヨザックのそんな反応は少女の意に染まなかったようで、小さな唇があっという間に尖る。

「とりっく、おあ、とりーとっ!」

「はぁ……」

 丁寧にゆっくり言い直されても、やはり分らないものは分からない。似たような反応しか返せずにいると、「むーっ」と少々不満そうにしながらも、少女が今度はヨザックにも分かる単語を口にしてくれた。

「お・菓・子!」

 一音ずつ区切ったせいで揺れた身体、少女の差し出していない方の手に握られた袋の中身が、微かに音を立てる。自然そちらに目を向ければ、様々な色や形をしたお菓子が顔を覗かせていた。

 成る程、とヨザックは納得する。鳥がどうこうという言葉の意味はよく分らないが、要するに目の前の少女はお菓子を所望しているらしい。ヨザックは遠方での任務から今しがた還ってきたばかり、お土産のお菓子はどうしたと、そういうことだろう。

 肩に背負った自身の荷物の中身を思い返し、ヨザックは内心「まいった」と頭を掻いた。

「あー……、すみません、姫さま。今回のお土産は食いモンじゃないんですよ。グウェンダル閣下が収集中のご当地ケティちゃんならあるんですけど。何なら、閣下に内緒で一つ……」

「無いの!?」

「へ?」

 予想外の弾んだ声を返され、ヨザックは目を瞬かせる。

 菓子を欲していたはずの少女は、がっかりするどころか輝いた顔を浮かべてみせ。再確認というように、もう一度同じことを尋ねてきた。

「グリ江ちゃん、お菓子持ってないの!?」

「え、えぇ……」

「じゃあ、トリックだー!!」

「は!?……って、ちょっと!!」

 上げた抗議の声はけれど、すぐに消えてしまった。急に少女が飛びかかってきたと思ったら、脇腹に添えられる小さな両手。一瞬の間の後、それが忙しなく動き出す。

「ははっ、……ちょっ、姫さっ……!!」

 これでもかとくすぐられ、ヨザックは思わず身を捩った。これはまさか、菓子を持っていなかったことへの罰だろうか。

 むこうずねに衝撃がくれば、誰だって痛がるように。足の小指をどこかの角にぶつければ、地味に痛いように。万人共通で弱い部分というのはあるものだ。そしてくすぐりもまた、敏感さの点で差はあれど、万人共通でそれなりにダメージは受ける。

 どこかの国には、くすぐりを使った拷問もあったよなぁ、などと他人事のように思ってみたところで、当然ながらくすぐったさを紛らわす助けにはならない。

「……姫さ、……ほんと、勘弁っ!」

「えーっ。だってグリ江ちゃん、お菓子持ってないんでしょ?だったらトリック受けなくちゃー」

 邪気ゼロなのだろうその笑顔も、既に笑い過ぎで浮かんだ涙によってぼやけていた。

 確かに罰と考えれば、これぐらい可愛らしいものかもしれないが、ヨザックにだってやはり限界はある。本気を出せば、この少女を引き剥がすことぐらい訳ない。だが、間近に響く楽しそうな声を聞くと、無理に中断させるのも気が引けてしまう。

 どうしたものか。思考の進退窮まったヨザックの滲む視界に、不意に新たな黒色が滑りこんだ。

 

「グレタ!何やってんだ!?」

「あ、ユーリ!」

 慌てたような声と、嬉しそうな声。同時に、脇腹や脇に張り付いていた小さな手も離れる。ヨザックはようやく息を吐き出せた。

 眼尻に浮かんでいた涙を拭えば、気遣うように漆黒の瞳が覗きこんでくる。

「大丈夫か、ヨザック?……困らせちゃ駄目だろ、グレタ」

「違うよ、ユーリ。これはトリックなの!」

 愛娘の言い分に、年若い父は意外そうに目を見開く。

「え?……あぁ、そっか。ヨザックは知らなかったのか」

 すぐに事態を理解したらしい主は、独り納得したように頷くが、ヨザックにしてみれば未だ不明な点ばかりだ。けれどそんなヨザックは置いてきぼりで、父娘の会話はどんどん進む。

 娘に言い聞かせるように、主は中腰になって小首を傾げた。

「代わりにおれがお菓子あげるから。もう許してやりなよ。な?」

「いいの!?さっきもくれたのに?」

「うん、いいよ」

 頷いた主に、少女は嬉しそうに小さく飛び跳ねる。そうして、ヨザックにしたのと同じように右手を差し出すと、歌うように例の呪文を唱えた。

「トリック・オア・トリート!」

「ハッピーハロウィン」

 これまた聞きなれない言葉を口にして、主が持っていた袋から菓子を取りだす。橙に近い黄色をしたクッキー。形がかぼちゃ型だから、もしかすれば味もそうなのかもしれない。掌に載せられたそれを、少女が大事そうに両手でそっと包みこむ。

ありがとうと笑った少女は、父からヨザックの方へと視線を移し、

「ごめんね、グリ江ちゃん。でも楽しかったよ。ありがと!」

 手を振ると、元々目指していた場所へだろう、踵を返してパタパタと駆けていく。

 離れていくその背に向かって、主が声を張り上げた。

「次は誰の所に行くんだー?」

「ギュンター!」

 走りながらチラリと振り返ったその顔は、相変わらず事態が呑み込めないヨザックから見ても、やはり楽しそうで。

 走る動きに合わせて揺れる黒の尻尾を、ヨザックは主と並んで見えなくなるまで見送った。

 

 

「ごめんな、ヨザック」

 見上げられ、ヨザックは頭を振る。

「いえ。というか、何なんですか?トリックとかハローとか」

「あはは、ハローじゃ挨拶になっちゃうよ。そうじゃなくて、ハロウィン、ね」

「はろ……うぃん?」

 

 おれも詳しく知ってるわけじゃないんだけど、と前置きをする主によれば、今日は地球でいうところの「ハロウィン」という日らしい。

 子供たちが、お化けや魔女、黒猫といった不気味で恐ろしいイメージのあるものに扮し、家々を回っては、「菓子をくれなければ悪戯をするぞ」という意味の「トリック・オア・トリート」を唱える。大人たちはそれに対し、「ハッピーハロウィン」の言葉と笑顔を添えて、用意していたかぼちゃを使った菓子を子供たちに渡す。

 主がふと漏らしたこのイベントに、愛娘はいたく興味を持ち。加えて、地球イベント好きの王佐の大プッシュもあり、本日、血盟城にてハロウィンが開催される運びとなったらしい。

 

「そうだったんですか。そりゃあ、菓子を持ってなくて姫さまに悪いことしちゃいましたね、オレ」

 後悔を口にすれば、そんなことはないと、主が軽く背中を叩いてくる。

「城のみんなは今日がハロウィンだって知ってたから、当然みんなお菓子を用意しててさ。誰に声をかけても必ずお菓子を貰えるっていうのは、勿論嬉しいことだろうけど、グレタの年頃としては、悪戯も同じくらい魅力的だったと思うんだ。堂々と大人に悪戯していいことなんて、そうそう無いだろ?だから、ヨザックがお菓子を持ってなかったのは、グレタにとっては嬉しかった思うよ」

 本人だって、楽しかったって言ってたじゃん。

 語るその顔に、ヨザックはふと、訊いてみたくなる。明確な理由なんてない。何となく、そう感じたのだ。

「実は坊ちゃんも、悪戯してみたかったり?」

 何も考えずに口にした疑問は、やはり主にとっても意外なものだったらしく。きょとんとした顔が返ってきた。

「えぇ?いや、さすがにおれは、もうそんな歳でもないし……」

 否定しかけた主はけれど、思いついたように言葉を切る。

「あー……、でも。そうだな。やっぱり、悪戯されるよりはする方が好き、かな」

 そうして、この主にしては珍しい、ニヤリとした顔で見上げられた。

「ヨザック、トリック・オア・トリート!」

「えーっ?」

 これまたヨザックにしては珍しく、主に対して不満の声を上げてみるが、返ってくるのは主のにっこり笑顔のみだ。

 早くも自分の敗北を悟ったヨザックは、溜息を吐いて降参とばかりに両手を上げてみせた。

「御覧の通り、お菓子はございません」

「つまり、トリックだな?」

「お好きにどーぞ」

 溜め息交じりの返答に笑い、主はズボンのポケットに手を突っ込む。取り出されたのは、ヨザックの記憶が正しければ確か、地球の筆記具だ。主が以前、マジックとか呼んでいたか。

 よくもまぁ、都合のいい時に所持しているものだ。またしてもどこか他人事のように思いながら、ヨザックは両目を閉じる。ここまでくればもう、何をされるかは明白だった。顔に落書き、だ。

 ヒタリ。頬に、少しだけ冷えたものが押しあてられる。と思ったら、すぐにそれが頬全体を滑りだした。動きから察するに、どうやら模様ではなく文字を書いているようだ。

 墓穴を掘ったなぁ、などと考えているうちに、それは見事に両頬を滑り終えた。キュッ、と小気味いい音がする。

「できた!」

 上がった満足そうな声に目を開き、ヨザックは己の有り様を確認すべく、常備していたグリ江変身用手鏡を取りだした。

 覗きこめば、見慣れた自分の顔と、鏡に映った左右反転の文字、そして、ヨザック自身のことを示しているのだろう矢印が一つ。

 

 思わず、言葉を失った。

 

「とりあえず今日一日、ソレ、落としちゃダメだからな」

 主が楽しそうな声で念を押してくる。けれどヨザックは、そちらを向かなかった。向けなかった。

 鏡から、目を離せない。

 しばらく無言でもう一人の自分を見つめ、ふと込み上げたのは、笑い。

「ヨザック?」

「……『黒猫が前を横切ると、不吉なことが起こる』」

 呟きに、隣で主が小首を傾げた。

 浮かんだのは、さっきの黒猫姿の少女と、古い迷信めいた言葉。

 昔、誰かがそんなことを言っていた。そして自分は、少女からも主からも、こうして悪戯をされた。

 けれど。

「やっぱり、迷信は迷信ですね」

 不吉どころか、こんな。

 

――悪戯で書く落書きがコレですか。

 

 もう一度、鏡に映った自分を示す矢印と文字を目で追い。

 ヨザックは小さく笑うと、手鏡を仕舞った。

 

 

 

 『魔王自慢のお庭番↑』

 

 

 

 

 

あとがき

 44444打を踏んでくださった、久生鵺斗さまから頂戴しました、「ヨザックでイベント・季語自由・陛下がいると尚良し」というリクエストで書かせていただきました。リクエストを頂いた時期的なことと、鵺斗さまの運営されるサイトの開設日がハロウィンということで、イベントはハロウィンをチョイスしてみました。

 ちょっとグレタのキャラが変わってしまった……ような気が、しなくもない。(←どっち。)でもお庭番との遣り取りは楽しく書かせていただきました。(肝心の有利の出番が少なくなってしまい、申し訳ないですが。)たぶん、大柄な人とちっちゃい人が仲良く一緒にいるのをすごく微笑ましく思う管理人の思考が溢れた結果です。(笑)

 あと、ここでの有利は、眞魔国の文字はある程度書けるようになっている設定です。

 こんな話でよければ、受け取ってやってくださいませ。鵺斗さま、リクエスト有難うございました!!

 

嬉しい追記♪

 久生鵺斗さまが、快く受け取ってくださったうえ、この話からイメージしたグレタの絵を描いて下さいました!素敵な絵はこちら(←拙宅の頂き物部屋の一部にとびます。)。

 ちなみに、有利が使ったのは水性マジックです、鵺斗さま。(さすがに有利はそこまでひどくはないハズ。)でも確かにお庭番は、このままの顔でうろついたら色んな人から攻撃されそうですね。(笑)

 

 それから、今さらですが、黒猫や魔女って、眞魔国では不吉どころかむしろ有難がられていそうですよね……。ごめんなさい、私の完全なる初歩的ミスです。(泣)生温かく読み流してやって下さると幸いです。

 

 

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