開け放ったままの窓から、心地よい風と鳥のさえずりが流れてくる。 青い空から降り注ぐ陽光は、樹の葉を煌かせて。 淡紅色の花びらも、風に乗って舞い踊る。 とても、平和な風景。――いや、平和に“見える”風景。 「……まぁ、そんなもんだよな」 床に直接あぐらをかいたままの男は、誰にともなく呟いた。 自分のかつての故郷も、魔物が出るとは思えないほどに、普段はとても穏やかだったのだから。 Self 「ん……」 薄っすらと開いた瞳に、その場の空気は明るくて。眩しさについ、再び目を閉じかける。 けれど、耳に届いた低い声に、少女の意識は浮上させられた。 「目が覚めたのか?姫」 呼びかけられ、今度はしっかりと双眸を開く。一瞬感じた眩しさは、二・三度瞬きするうちに消え去った。 自分のことを「姫」と呼びかけてくるのは、共に旅をしている仲間の内に二人いる。けれど、敬語を使ってこないのは。 「黒鋼……さん?」 片目を擦りつつ上半身を起こせば、いつもの不思議な黒い衣装に身を包んだ男が一人、部屋の窓際の床に直接座り込んでいた。一方の自分はといえば、ソファに横になっていたらしい。 男の紅の瞳が、真っ直ぐにこちらに向く。 「覚えてるか?昨日、この家に入ってすぐ寝ちまったんだが」 「え?」 言われて記憶の糸を手繰り寄せてみるも、確かにこの家に足を踏み入れた辺りまでしか思い出せなかった。どうやらまた、突然眠りこけてしまったらしい。 自分の意志で眠っているわけではないとはいえ、何とも申し訳ないような、恥ずかしいような気持ちになり。思わず自身に掛けられていたブランケットを顔の半分まで引き上げながら、サクラは謝罪を口にした。 「す、すみません。わたし、またご迷惑を……」 「別に謝ることはねぇ」 結構小さな声になってしまったのだが、黒鋼はしっかりと拾ってくれたらしく。目線をサクラから外しながらも、そう言った。 そこで、会話は途切れる。 黒鋼が開けたのか、窓から涼しい風が流れ込んでくる。鳥たちのさえずりも、部屋に音が無いせいか、いつも以上に大きく聞こえ。 流れる沈黙に耐えられず、また、さっきから気になっていたこともあり、サクラは再び口を開いた。 「あの、ところで小狼君たちは……って、えぇ!?お、お家がっ!!」 辺りを見回しながら言った少女は、驚愕に目を見開いた。 起き上がった時は、ちょうど自分の背後になっていて気が付かなかったのだが、昨日入ったばかりの家の窓が大きく割れている。自分の寝ていたソファの脚の近くには、割れた窓ガラスの破片も集められていた。 脳内が疑問符で一杯になる少女に、あぁ、という男の落ち着いた声が届く。 「実は昨夜、デカイ妙な魔物がここに来てな。これはその名残だ」 「ま、魔物……?」 穏やかではない単語に、少女は眉根を寄せた。 自分にある昨日の記憶の限りでは、ここ――桜都国というらしい――は親切な人の多い、平和な国のように映ったのだが。 「あぁ。ガキの蹴り一発で消えちまったがな。ガキどもが今、例の市役所とやらに、その魔物の話を聞きに行ってる」 となると、黒鋼が独りでここに残っているのは、おそらく自分の護衛ということだろう。 自分が眠っていなければ、全員で市役所に赴いて、黒鋼も直接その魔物の情報を聞けたのかもしれない。そう思うと、ますます黒鋼に申し訳なくなる。 「……俺は、めんどうなことは嫌いだ」 脈絡の無い突然の言葉に、サクラは俯きかけていた顔を上げた。 対する相手の顔は、窓の外に向けられている。 「他人から情報を聞き出したり、他人に状況を説明したりするなんざ、めんどくせぇ。だから市役所に行かず此処に残った。それだけだ」 まるで、こちらの想いを読んだかのごとき台詞。いや、きっとそうなのだろう。 本人にそれを問いかければ、自分はただ事実を述べただけだ、とでも返ってくるのかもしれないが。だったら、先程自分にしてくれた現在の状況説明は、何だというのだ。 この人は、気にするな、と暗に言っている。 「そういや、姫の羽根のことだが」 サクラは礼を言おうとしたのだが、思い出したような黒鋼の言に先を越されてしまった。 「白まんじゅうが言うには、この世界に羽根があるらしい」 「本当ですか!?」 思わぬ朗報に、声の調子が上がる。連続して羽根のある国に訪れることができるとは。 「ああ。だからしばらくはこの国で……――」 「だったらわたし、この国の情報を集めに行ってきます!」 元々、羽根は自分のものなのだから、自分ばかり寝ているわけにもいかない。 手元のブランケットを剥ぎ取りながら言えば、相手の眉間に少々皺が寄った。 「……やめておけ。自分の意志に関係なく眠くなるってことは、まだ本調子じゃないんだろ。それに、この国は謎が多い」 「でもっ」 「動くな!」 突然投げられた大声に、反射的にビクッと身体を硬くする。ソファから下ろしかけていた右足が、宙ぶらりんになった。 「まだ硝子が残ってるかもしれねぇ」 「え?」 「一応昨日のうちに片付けはしたが、欠片がまだ床に残ってる可能性がある。怪我したくなかったら、しばらくそこで大人しく休んでおけ」 「黒鋼さん……」 知らなかった、とサクラは思う。 さっきの言葉といい、今の言葉といい。 表面的に見ればぶっきらぼうで、それを口にする表情も不機嫌そうだが。その裏には、彼なりの気遣いや優しさが隠れている。 今の一見脅しのような言葉だって、そんな風に言われてはソファから動くわけにはいかなくなる。そしてそれは、すぐに眠くなる体調をストレートに気遣われるよりも、ずっと気が楽だ。 この異国の忍者は口下手だと思っていたのだが、自分のとんだ勘違いだったのだろうか。 「……ありがとうございます」 あえて“何が”とは言わずに、今度こそ礼を告げれば。やはりぶっきらぼうな応えが返ってくる。 「何でここで礼なんざ出てくるんだ」 「気にしないで下さい。言いたくなっただけですから」 微笑むと、「……ふん」と短く返事が返ってきた。 再びその場に沈黙が降りた。 思えば、とサクラは考える。こうして黒鋼と長く会話を交わしたのは、初めてかもしれない。旅の初めの頃は、いつも眠くてしかたがなかったし。普段は、明るい白き生き物や、気さくな魔術師が説明役を買って出てくれる。真摯な眼差しの少年は無論、極力傍にいてくれる。周囲のそんな状況のためか、黒鋼とは必要以上の接触は不要だったのだ。 もっとも、起床時や就寝前に挨拶をすれば、律儀に「おう」と応えてくれるから、無視されているわけではないだろうが。 今日のこれはある意味、いい機会なのかもしれない。 「あ、あの!黒鋼さん!!」 「あ?」 ソファから身を乗り出して声をかければ、相手は目だけでこちらを向く。 「何かお話し、しませんか!?」 「……は?」 勢い込んで告げると、黒鋼はポカン、という顔をした。 「話し?」 「はい。お話しです!」 「……別に構わねぇが、話題は何だ?」 「え?」 問われ、思わず固まった。そこまで深くは考えていなかったのだ。 この場合、話題は何か、という返しをしてくる黒鋼にも多少の問題はあるのだが、サクラの中にはそんな思考は存在しない。 「え、えーっと、それはぁ……」 慌てて脳を回転させるが、話の糸口はそう簡単に見つからなかった。今更ながら、自分は黒鋼についてほとんど知らないことに気付く。 自分から言い出したというのに、何と情けないことか。 サクラが考え込んでいると、不意に黒い影が動いた。 あぐらをかいていた姿勢から立ち上がり、窓枠に片手をつくと、外を眺める。 「……同じ名だな」 「へ?」 「この樹の花だ」 黒鋼の視線の先を追えば、この国のあちこちで目にした淡紅色の花があった。 「俺の元いた国にも、これに似た花があった。『桜』っていってな」 「わたしと同じ名前……」 呟けば、黒鋼が樹を見上げたまま頷く。 「この花が咲くと、みんな春だ春だと喜んでな。この樹の下で暢気に花見の宴なんざ始める」 「はる?」 耳慣れぬ単語を問えば、あぁ、と少し困ったように相手が頭をかいた。 「春ってのはつまり……暖かい時期のことだな。だが、暑いってほどじゃあねぇ」 「それは過ごしやすいでしょうね。皆さんが喜ぶのも分かります」 自分の記憶の中にある砂漠の国には、基本的に暑さと寒さしかない。日中は、素肌を出せば火傷をするほどに暑く、夜は逆に、着込まなければ身震いするほどに寒い。 そんな砂漠にはない、「春」と呼ばれる、自分の知らない時節。 「黒鋼さんのいた日本国って、どんな所なんですか?」 ただ純粋に、それまで玖楼国を出たことがなかったが故の、好奇心から出た質問だった。だが一瞬、黒鋼の横顔が翳る。 「あっ。ご、ごめんなさ……――」 慌てたサクラの言に重なったその声は、二人きりの部屋にやけに響いた。 黒鋼の視線は、サクラの方を向かない。ただただ一心に外を見詰めているように見えた。 「この国のように魔物もいた。城には敵からの刺客も来た。だが、普段はそんな物騒な事とは無縁みてぇに、穏やかで、平和だった」 黒鋼につられるように、サクラも視線を窓の外へと移す。 晴れた空。歌う鳥。揺れる木洩れ日。そして、その風景を彩るように舞う淡紅。 確かにこの画を見る限りでは、魔物なんて物騒なものは想像もできない。とても平和な風景だ。 「それに、妙な奴が多くてな」 急に変化した口調に、サクラは意識を外から黒鋼へと戻す。さっきまでの、懐かしむような真面目なそれとは明らかに違う。 「特に知世と天照。ひとのことを散々からかいやがって……!」 不愉快なことでも思い出したのか、拳を小刻みに震わせる黒鋼に、サクラは失礼と知りつつも小さく笑ってしまった。普段から黒鋼のことをからかっているファイやモコナのことも凄いと思っていたが、そんな人物が日本国にもいるとは。 けれど、サクラはもう知っている。 詳しくとまではいかなくとも、この忍の男が何を望んでいるかを。 「だけど、帰りたい場所……なんですよね」 言えば、少し驚いたような紅の瞳とぶつかった。だが、それはまたすぐに向こうから外される。 返事は、小さな溜め息に乗って返された。 「……不思議なことにな」 その目は、桜を見詰めていた。 黒鋼の横顔に望郷のような色を感じ取り、サクラはとある言葉が喉まで出かかった。が、思いなおし、再びそれを飲み下す。 『きっと帰れますよ、日本国へ』 何て安直な言葉だろう。根拠もなく、気休めでしかない。 けれど、こんな表情の黒鋼をただ黙って見ているのは忍びなくて。 何か、言い方はないだろうか。直球ではなく、婉曲的に。 思いを伝えてみようか。伝わるだろうか。――さっき、黒鋼がそうしてくれたように。 己は何を言っているのか。黒鋼は内心で自分を嘲笑っていた。訊かれたこととはいえ、こんなにも自分の祖国について他者に語るとは。 少しばかり日本国を思わせるこの国の風景がそうさせたのか。はたまた訊いてきたこの少女に、そうさせる“何か”があったのか。見詰める先に在る淡紅の花は、答えを教えてはくれない。 「わたし、見られるような気がします」 唐突な言葉に、少女の方を振り返った。 ソファに上半身を起こしたままのサクラの表情は、真剣そのもので。だから黒鋼は、黙って続く言葉を待つ。 「黒鋼さんのいた日本国の桜、わたしも絶対見られるって、そんな気がします」 一瞬、日本国の桜を見せてくれとせがまれているのかとも思った。が、すぐに言外に含まれた意味を悟る。 ―――俺は日本国に帰れると、そう言いたいのか。 サクラが日本国の桜を見ることはつまり、一緒に旅をしている己もその場にいるということ。――そう、日本国に。 黒鋼は、ゆるりと口元を歪ませた。 「『絶対』なのに、『気がする』のか?」 はっきりと言い切れないところが、この少女らしい。けれどそれは、安易な理想を軽々しく口にするよりずっといいように思われた。 「……ありがとな」 告げれば驚いたらしく、少女が元々大きな目を更に大きく開き。けれど、次の瞬間には嬉しそうに笑った。 その名を同じくする花を思わせる、温かな笑みだった。 「寝ちまったか……」 また暫く外の風景を眺めていた黒鋼は。急に静かになった室内に視線を戻し、そう呟いた。 少女の身体が規則正しく上下していた。よく耳を澄ませば、微かな寝息も聞こえてくる。 「この姫に気遣われるようじゃ、俺もまだまだだな」 唇の端を吊り上げ、独りごつ。根拠もなく、曖昧な言葉ではあったが、励まそうとしてくれている彼女の気持ちは充分伝わってきた。それに、自分の望みの成就を信じる者がいることは、不快ではない。 吹く風の向きが変わったのか、窓から流れてくるそれが、寝ている少女の髪に悪戯を仕掛ける。小さく身じろぎをする姿を見て、黒鋼はそっと窓に手を伸ばした。 窓を閉じる寸前、隙間から桜の花びらが一枚滑り込んでくる。拾い上げたそれは、やはり、祖国のそれとよく似ていて。 『黒鋼さんのいた日本国の桜、わたしも絶対見られるって、そんな気がします』 「当然だ。俺はまたあの花を見る」 “似たような花”ではなく、あの花“そのもの”を。 摘んだままのその一枚を、窓の外に放つ。 風に乗ったそれは、祖国を思わせる風景の中に消えていった。 |
あとがき また桜都国の話になってしまいました…。(アニメ派の方には、ちょっと展開が違う部分があります。ご了承下さい〜!)この数分後、仕事を決めてきた小狼君たちが帰ってきて、黒鋼さんはファイさんの泣きまねに付き合う羽目になるのです。(笑) ちなみにこの話、以前書いた「Wariness」に微妙に繋がっていたりもします。あの中でサクラちゃんが「黒鋼さんって、ぶっきらぼうですけど、実はとても優しい方だなっていうのは、以前から思っていたんです」と言っている辺り。そう思うようになる最初のきっかけがこの話……のつもりです。 |