降りだした雨は、すぐにその激しさを増した。 その強がりも見ないふり 朝からいかにもな暗雲が垂れこめていたが、正午を前にしてついに耐えきれなくなったらしい。重力に引きつけられるまま、水の粒が次々に地へと落下し、瞬く間にその色を暗く変色させていく。 回廊を歩いていたヨザックは、斜めから差し込んでくる雨を避けるように壁側に寄った。城と庭の境目となる欄干の上では雨粒が忙しく跳ねまわり、その下にある豪華な大理石の床も、既に庭側は雨に侵略され始めている。 その様に一瞬目を奪われ、この豪華な床を歩くのも随分と慣れてしまったものだと、ヨザックはここ最近を振り返った。 新王が立ち政権が移ったこともあるが、ヨザックの上司にあたる男は、自分の城であるヴォルテール城よりも、この血盟城にいることの方が多くなってしまった。当然、その上司に報告するために、ヨザックも血盟城通いの回数が増えてきている。 特にこの2週間は、フォンヴォルテール卿は血盟城に詰めていた。これまで里帰りとやらで突然国から姿を消すことが2度もあった新王が、この2週間はずっと血盟城に留まっているというのだ。 執務を教え込み慣れさせるならば今だと、フォンヴォルテール卿は根気強く新王の不慣れな執務に付き合っている。 『政治は素人同然の上、文字を読むことさえ危ういからな。あの王独りに任せていたら、執務は溜まる一方だ』 諦めたように溜息をついた、さっき見たばかりの上司の姿が脳裏に浮かぶ。 これで進歩が全くなければ、有無を言わせず自分が独断で執務を進めるところだが、あの王は小さい歩幅ながらも一応は前進していて、そこがまた厄介なのだと苦笑していた。 あの溜息も、あの苦笑も、決して本気で嫌がっている時の上司のものではない。 けれど。 『ようやく陛下も、この国に腰を落ち着ける気になってくれたんですかねぇ』 ヨザックが呟いたそれには、上司は明らかに表情を曇らせた。 『いや。そうでもないようだ』 ――バシャン! 響いたそれに、思考が途切れた。 足を止め、音の方角に向けたヨザックの目が捉えたのは、一つの人影。 それは、降り続ける雨の中、庭にできた少し大きめの水溜りの中に両膝を着いて佇んでいた。俯いたままの顔がしばらく水溜りを見詰め、徐に両手が持ち上げられる。そして、降り下ろされた。バシャリと再び音が響き、上がった泥混じりの水飛沫がその者を汚す。すぐにまた、雨の降る音だけが響く静寂に戻った。 そのまま動かない人影に、ヨザックは歩を進めていた向きを変える。乾いた壁側の床から、濡れて滑りやすくなった床に進み、行儀悪くも欄干を飛び越えようと手を添えたところで、また人影が動いた。 振り上げられた両の拳が、再び水溜りに叩きつけられる。今度はそこで止まらなかった。すぐにまた振り上げられ、振り下ろされる。 上、下。上、下、上下、上下上下上下。 バシャバシャと泥水が跳ね回り、その人影にも容赦なく降りかかる。 やがて、動きを止めた人影は、ゆらりとその場に立ち上がった。そしてまた、動かなくなる。 短く息を吐き出し、ヨザックは今度こそ欄干を飛び越えた。すぐに全身を包んでくる雨にも構わず、その人影へと真っ直ぐに庭を進む。 『この前は、朝食に出されたスープにまで両手を突っ込んでいた』 上司に聞かされた。 新王は、故郷に戻らないのではなく、“戻れない”のだと。それまで水を介してできていた故郷への移動が、急にできなくなったのだと。 そしてこの2週間、風呂場に噴水、トイレ、あらゆる水の周りで目撃された、王の奇行の数々。 『“あれ”も、全く分かっていないわけではないとは思う。王の責任というものを』 それでも、諦めきれないのだろう。 呟いて、上司は苦々しく笑った。 『望郷の念を持つなとは言わん。――だが、“あれ”は王だ』 王の肩には、数えきれない国民の生活が乗っている。そうだろう? 人影はもう、雨の中でもはっきりとその輪郭が見えるまでになっていた。その距離まで近づいたヨザックに、静かな声が届く。 「おれ、泣いてないから」 振り返ることはない、細い背中。 声は震え、掠れていた。いや、声だけではない。その肩も。 一瞬止めた足を、ヨザックはまた一歩近づける。 「だって、眞魔国のみんなに、こんなによくしてもらってる。魔王になることだって、おれ自身で決めた」 パシャリ。ヨザックの靴底が、微かな音を立てて遂に水溜りへ沈んだ。新たに生まれた波紋は、隣で佇んだままの人物の靴にぶつかり、すぐに乱れて消える。 「泣けるワケ、ないじゃん……」 王はもう一度、泣いてないよ、と小さく繰り返した。まるで、自分に言い聞かせるかのように。 横に並んだまま、それでも隣の顔を見ることはせずに前方を見据え、ヨザックは口を開いた。 「えぇ、承知していますとも。そのお顔が濡れているのも、肩が震えているのも、ぜーんぶ雨のせいなんでしょう?陛下がそう仰るんなら、アナタは泣いてなんかいないんでしょう」 告げれば、少しの間を開けて小さく溢される溜息。 「……あのさ。こういう時は、もっと素直に肯定してくれるもんじゃないの?」 少々恨めしそうなその声にようやく隣を見降ろせば、口調の割に、浮かべている表情はやっぱり、今にも泣きだしそうになるのを我慢するそれで。 必死に強がってみせる少年に、ヨザックは「すみません」とだけ伝え、苦笑した。 |
あとがき 泣いていないと言った有利。もし相手がヴォルフだったら、「あぁ」と短く、けれど有利曰くの素直な肯定をしてくれただろうと思います。もしコンラッドだったら、素直な肯定は勿論、「でも、たまには泣いたっていいんですよ」の一言まで付け加えるかもしれません。 そう考えると、お庭番の『泣いてることには気づいてるけど、あえて見ないふりしてあげますよ』というのが明らかなこの対応は、結構厳しいものだと思います。(それならいっそ、「嘘つけ。泣いてるくせに」とストレートに言われた方が、まだ開き直って思いっきり泣いてしまえますし。)でも多分、お庭番はこんな態度をとる人だと思います。 ちなみに今回、まるマではあまりしない書き方をしてみました。でもこの書き方をすると、管理人はどうにもシリアス傾向に走ってしまうようで…。うむむ、バランスって難しい。 |