たとえ、気付かなくとも

 

 

瞼で光を遮断した闇の中、息を潜めてその時を待つ。全神経を聴覚――耳に集中させて。

不意に、ゴォッ……と遠くで微かな音がした。すかさず神経を触覚にも向けさせる。頬に僅かな風。段々と音が近づいてくる。

自身の髪の毛がたなびくと同時、周りを取り囲む“生きていないもの”の気配が揺れた。

ザワザワと音を立てた“それ”が、その一部を自身から離した刹那。少年は両目を開き、腰の業物を抜刀した。

 

銀の軌跡が閃いた時には、地面に二枚の葉が落ちていた。もっとも、それら一枚だったのだが。

それを認めた少年が軽く息を吐くと。突如その後ろからパチパチと手を叩く音が響いた。

「凄いねー、小狼君」

「ファイさん!?」

驚きの表情で少年が振り向いた先には、旅の同行者の一人がこちらへと歩いてきていた。大海を思わせる深い蒼と、そこに映る月と同様に儚い金色をその身に宿した、スラリとした体躯の男。

「偉いねー。こーんな朝早くから一人で自主練なんて」

「いえ、偉くなんて。それよりすみません、起こしちゃいましたか?」

「いーの、いーの。どうせオレも、朝ご飯の準備があるし」

気にしないでー、と笑顔で片手をヒラヒラと振られれば、それ以上の言葉は紡げない。

「それにしても凄いねー。落ちてくるこんな小さい葉を一刀両断するなんて」

「いいえ、おれはまだまだ未熟です」

褒められた少年はしかし、気落ちしたように再び息を吐く。

地面に落ちたままの二つに別れた葉を拾い上げると、相手に示した。

「見て下さい。斬れた葉の大きさがバラバラです」

「と言うと?」

「黒鋼さんは、葉脈にそって綺麗に半分に斬っていました」

「あぁ、成る程」

魔術師が苦笑する。

「黒様はプロもんねー。刀との付き合いも長いし。……それでも、君は黒ぽんレベルを目指すだろうけど」

「はい」

頷けば、相手はふっと笑った。続いて、小狼の掌から葉をつまみ上げる。

「相変わらず自分に厳しいねー、小狼君は。まぁ、それが君の君たる所以なんだろうけど」

 くるくると指先で葉を弄びながら、ファイが唐突に訊いてきた。

「ちょっと、焦ってない?」

「え?」

「昨日、巨大化した猿と戦った時のこと、気にしてるのかなーって」

「!?」

 チラ、と蒼い瞳を向けられ瞠目する。図星だった。

 

 

 

 いつものように次元移動の風を抜け、開けた視界。すぐに目に飛び込んできた色は、深緑だった。どこかの森の中らしい。鬱蒼としていて、頭上はポッカリ開けているものの、そこ以外からは日の光もほとんど差し込んでこない。

今度はどんな国だろうかと小狼が首を巡らせるよりも先に、近くの茂みからガサッと微かな音がした。咄嗟に片手で背後にいたサクラを庇う。他の大人二人にも、表情は変わらずこそすれ緊張が走る。

瞬間、茂みが更に大きく揺れた。獰猛な雄叫びを上げながら巨大な影が躍り出る。間髪入れずに振り下ろされた丸太のような太い腕に、それぞれが散り散りに跳躍した。

「うわー、早速お出迎えだー」

「ちっとも歓迎されちゃいねぇーが

 跳んで避けながらも余裕の会話を交わす魔術師と忍が彼ららしいと思いつつも、サクラを抱えたままの小狼にはそんな余裕は無い。彼らが数秒前までいた地面は、振り下ろされた巨大な拳を中心に同心円状に激しく地割れを起こしていた。

 巨大な影から距離をとって地に降り立つと、小狼は抱えていたサクラをそっと下ろす。低く彼女に告げた。

「危険です。下がっていてください」

「はい」

「小狼!」

 焦ったような呼び声に、サクラの肩にしがみ付いていたモコナを見下ろす。と、白い不可思議生物は、めきょっと目を見開いていた。

「感じる!サクラの羽根!」

「え!?」

「あの大きなお猿さんのお化けが持ってるの!胸の辺り!」

「なんだって!?」

 改めて巨大な影を見上げる。避けた小狼たちに逆に囲まれたことに気づいたのか、影は身軽に跳躍し、近くの樹の太い枝に飛び乗った。この身のこなし、長い尻尾、そして鳴き声、確かに猿のようだ。そしてモコナの示した胸部、そこには首から下げられた小さな巾着があった。

「あれか」

 羽根が入りそうなサイズであることが、小狼に確信をもたらす。あれを取り返すだけならば、この猿を傷つける必要もないだろう。黒鋼あたりが聞けば「甘い」と鼻で笑われそうだが、やはり必要以上に傷つけることはしたくないと小狼は思う。

 

 緋炎を抜刀し、片足で地を蹴った。巨大猿のいる樹へと一直線に跳ぶ。狙いは巾着の紐。

黒鋼もファイも動く気配はなかった。こういう時、彼らは小狼に全てを任せてくれる。必要以上に手を出さずに見守ってくれていることは、信頼と受け取っていいのだろうか。

 小狼の動きに気づき、巨大猿は長い尻尾を枝に巻き付けると、それをロープ代わりにして他の枝へと飛び移る。しかしそんな相手の動きもさることながら、小狼の刃の動きはその上をいった。毛深い首にかかっている紐を、猿が移動するすんでのところで断ち斬る。

重力に従って落ちるそれを掴み、小狼は地面に危なげなく着地した……はずだった。が、彼が掴んだ途端、手の中の巾着はあっという間に消失する。

「な!?」

 すぐさま猿が飛び移った樹を振り仰げば、そこにいる猿も、玖楼国でよく見た蜃気楼のようにゆらゆらと消えていく。

「幻……!」

「これも羽根の力か!?」

ファイと黒鋼の声を聞きながら、小狼は視線を周囲に巡らせた。どこかに本体がいるはずだ。

と、彼の顔が自身の立っている正反対の位置で止まる――巨大猿から一番遠い場所だったはずの、そこ。

 一瞬にして血の気が引いた。

「姫!モコナ!」

 叫ぶより前に駆け出す。小狼のその反応で状況に気付いたらしいサクラも、背後を振り返って息を呑んだ。

 邪魔者を排除するにはまず弱い者から。獣としての本性(ほんせい)を忘れていないらしく、巨大な影がサクラに襲い掛からんと樹から飛び降りてくる。

「やめろっ!」

間に合わない。

走りながら小狼が奥歯を噛み締めた瞬間。

「閃竜・飛光撃!!」

 目の前を、眩いばかりの光の竜が横切った。正確には、サクラと巨大猿の間を。

 驚いたように飛び退った猿の眼前に、既に地を蹴っていた黒鋼が躍り出る。ニヤリ、と破顔一笑。銀が一線閃けば、羽根入りの巾着がその身から離れた。と同時、猿の身体は瞬きする間もなく縮む。

小猿の体(てい)となったその陰は、キキッと一声残し、森の茂みへと消えていった。

 

 

 

「……もっと、強くなりたいです。今のままじゃ、姫を守れない」

俯き、小狼は両の拳を握り締めた。

黒鋼の操る特殊な剣戟をとは言わない。あれは一朝一夕で会得できるものではないと判っているし、何より自分は剣を握ってまだ日が浅い。

けれど、せめて気配だけでも更に敏感になれれば。黒鋼はあの時、猿が剣戟をどの方向に避けるかをも見切っていた。

「黒鋼さんのようになりたいです」

 搾り出すように言えば。それまで黙って小狼の言葉を聞いていたファイが、「うーん」と唸った。

「それは無理だろうねー」

「え?」

 暢気とも取れる声音であっさりと否定され、思わず言葉を失う。

 ザワリ、と風で樹々が鳴いた。

「……それはつまり、おれには剣の才能がないってことですか」

 小狼とて、己の力不足は重々承知しているつもりだ。けれど。

 俯いたままの視界にあるファイの影が、ゆるゆると首を振った。

「ううん、そうじゃないよ。君なら、練習を積めば、この葉も綺麗に二つに斬れるようになると思う。でも、例えそれができるようになったとしても、君は黒ぽんはなれない。――だって、小狼君は小狼君なんだから」

「!?」

 ハッとして少年が面を上げる。

「どんなに憧れても、自分は自分にしかなれない。黒様にしかできないことがあるように、小狼君には小狼君にしかできないことがあるだから。焦る必要なんて、無いだよ」

「おれにしか……できないこと……?」

「そう」

 頷いて、蒼の瞳が優しく細められた。

 本当にあるのだろうか?魔術師の言うように、己にしかできないことが――自分にも。

 

 

 

 野営をしていた方へと戻っていく少年の背を見送りながら、魔術師は傍の木陰へのんびりと声を投げた。

「いいお弟子さんだねー、師匠さん」

 音もなく姿を現した黒い影は。ふん、と小さく鼻を鳴らす。

「刀の扱いは、まだまだだな」

「あらら。厳しー」

 実にこの男らしい言に、ファイは僅かに苦笑した。

 ファイにしてみれば、落ちてくる葉を斬ることができるだけでも充分だろうに思う。葉は軽く、風にも流されやすい。そして刀を振り下ろせば当然、そこには一瞬、振り下ろしたことによる風が生じる。葉がその風に流される間もないくらい、素早く、的確に刃を振り下ろさなければならない……とても難しいことだ。

 それをやってのけるだけでなく、葉を斬る位置までをも操れるという とんでもない忍は。腕組みをし、先ほどのファイと同様、離れていく少年の方を見やった。

「小僧にしかできないこと……か」

「気付いてなさそうだったねー、小狼君。……でもまぁ、そんなものかもね」

 つられるようにファイも視線を黒鋼と同じくする。と、目が覚めたらしい。少年の背だけでなく、上半身を起こした状態の少女の姿も見えた。口が「おはよう」と動き、少年に笑いかけたのが分かる。

「……ひとって結構、自分のことには鈍感だったりするもんねー。『自分にしかできないこと』っていうのも、その本人にしてみれば意識せずにできてることだから、当たり前のように思っちゃって気付けない」

 サクラは誰にでも温かな笑みをくれるけれど。今浮かべている笑顔は、小狼しか引き出せないものだ。屈託のない、それでいて恥ずかしさや嬉しさをも秘めた、特別な笑み。

 その人の身を守ることも凄いことだけれど、笑顔を守ることも同じくらい凄いことだと、ファイは思う。

 

「お前だってそうだろ」

 言われ、相手を見上げる。

「お前も自分のことに鈍感だろ」

「ええ?そうかなぁ?」

 黒鋼の言葉に一瞬、魔術師は苦笑する。けれどすぐにその表情は消え、穏やかな目で遠くを見るようにファイは続けた。

「……でも、そうだね。そうだったらいいな」

 

 気付いていないだけで。

 自分も誰かに、何かをしてあげられているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

あとがき

 小狼君メインのはずが、終わり方だけ見るとファイさんメインですよね。(苦笑)

 出来ること・出来ないことって、誰にでもあるわけで。だからこそ、助け合える、補える。ついつい自分では、自分の出来ないことにしか目がいかないのですけれどね〜。(苦笑)

 ちなみに、サクラちゃんの羽根を回収できたのに、なぜ一行が移動せずに同じ森で野営になったのか。それは、サクラちゃんが羽根を得た後、そのまま目覚めなかったからです。つまり、上記した小狼君と笑い合うシーンが、彼女の今回の初お目覚め、というわけです。

 

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