Run
away ! 〜逃げろ!〜(2) 今や、この国の政治にとって なくてはならない存在と化しているフォンヴォルテール卿。彼は今、幼馴染であり頭痛の原因であり、しかし何故だか憎めない赤毛の小柄な女を前にして、必死に抵抗する策を考えていた。 ここ数日、彼女の恐るべし……いやいや、素晴らしい脳みそはいつも以上にフル活動しているらしく、次々と新作のアイディアを浮かべては試作品を作り、彼はその「もにたあ」として駆り出されていた。しかしこう何日も続けていると、仕事が溜まってしようがない。それより何より、魔力と体力がもたない。 だから、彼にとってこの時の入室者ほど有難いものはなかった。 「失礼します、閣下。諜報員より白鳩便が……ひっ!」 紙を手に扉を開けた兵は、毒女の姿を認め、小さく声を上げた。その顔には明らかに、恐怖の色が浮かんでいる。 その兵の反応に気づきながらも、グウェンダルは地の助け(天の助けではない)とばかりに食いついた。 「ご苦労。すぐに目を通そう」 「グウェンダル。逃げるつもりですか?」 「違う。しかし緊急の報告だったらどうする?実験には 読んでからつきあう」 しかも本当に緊急の内容だったら実験から逃れられる、とは胸中での付け足しだ。本来ならばそんな事態は起こらないに越したことはないが、ついそれを思ってしまうほどに
フォンヴォルテール卿は疲労困憊していた。 未だ怯えている兵の震える手から紙を受け取ると、さっと目を走らせる。と、彼の眉が軽く跳ねた。 「何?グリエがミス?……珍しいな」 手紙にはグリエ本人から、少しミスをしてしまい予定より帰国が遅れるとの旨が書かれていた。 「グリエ?あなたのところの『ドキッ!男だらけの情報部員、情報漏洩(ポロリ)もあるよ』のマチョですか?」 そんなことより早く自分の実験に付き合え、と言わんばかりの空気を醸し出しているアニシナ女史だったが、手紙の表に目を留める。 「おや。この差出元の街は確か、あの三人が向かったのと同じ所ですね」 「ああ。グリエがいることは事前に一応伝えておいた」 三人も向かわせたのは少々不安だったが、こういうことになっているのなら、逆によかったのかもしれない。 「どういうことだ!どこにもいないじゃないかっ!」 夜の闇でも、彼の湖底を想わせるエメラルドグリーンの瞳は映える。その瞳を凝らしながら、彼は辺りに首を巡らせた。 「ヴォルフラム!そんな大きな声を出しては、また妙な兵たちが寄ってくるでしょう!」 そんな彼を小声で制する長身の人物も、美しく輝く長髪を揺らしては辺りを見回し、地面に転がっている箱をひっくり返したり、建物と建物との隙間を覗き込んだりしている。 「まったく。やはり貴方を連れてきたのは間違いでした」 「何を言っている!?婚約者のぼくがユーリを迎えに行くのは当然のことだ!なのに、いつもいつもぼくに黙って、ギュンターとコンラートばかり!」 「私こそ当然です!これは王佐として道理にかなった……――」 「ギュンター!ヴォルフラム!」 小声で言い合う二人を遮るように、青年が息をきらせて走ってきた。二人に比べれば美の点で劣るといえど、それでも整った顔立ちをしている。 「コンラート!陛下が見つかったのですか!?」 「何!?どこにいる!」 期待に目を輝かせた二人に、コンラートと呼ばれた人物は首を振る。 「いや。ただ、ちょっと来て欲しい」 「これは……」 コンラートに連れられ、ギュンターとヴォルフラムは狭い路地裏に出た。横倒れになっている二つの木樽の前で、ウェラー卿は足を止める。 「おそらく、ユーリはここから出てきたんだろう」 「ここって……この樽からか?」 「なるほど、確かに地面が濡れていますね」 綺麗な長髪が地に付くのも構わず、ギュンターが屈んで土に触れる。 「この湿り具合からして、まだこの水が零れてからそう時間は経っていないでしょう」 「つまり、ユーリはまだそう遠くまではいっていないということだな?だが、どうしてここだと断言できる?たまたま水が零れていただけということは?」 「いや、間違いない」 見上げてくる弟に、ウェラー卿は地面を指差した。濡れているために地はぬかるみ、足跡がくっきりと残っている。 「この独特の跡はユーリだ。この世界でスニーカーは、おそらく彼しか履いていない」 「だったらこんな所にいる場合じゃないだろう!?すぐにユーリを探しに……」 「どうしてでしょうか?」 駆け出そうとするヴォルフラムを遮るように、ギュンターが低く呟く。 「どうして陛下は、お一人でこの場を動かれたのでしょう?普段ならば、このような人間の土地とも魔族の土地とも分からぬような場所に出られた場合、陛下は無闇にその場を移動されるようなことは……」 「ああ。俺もそのことが気になった。俺たちが迎えに来ると知っているから、ユーリはここで待っているはずだ。それがいないとなると」 「何か危険が迫って、逃げるしかなかった?……まさかっ!ユーリの奴、魔王だとバレて追われているんじゃないのか!?さっきだって、人間の兵が何人もウロチョロしていて、僕たちにも向かってきたじゃないか!」 「それかあるいは」 静かに呟いたコンラートは、やれやれといった調子で、地面に残っている もう一つの見知った大きな足跡を軽く蹴飛ばした。城を発つ前に聞いた、兄の言葉を思い出しながら。 「部下の失態に巻き込まれたか、だな」 「さ、坊ちゃん。お手を拝借」 昔のおれのダンスの誘い文句かよ、とツッコミの血が騒いだが、生憎と息切れで、口から出たのは情けない呼吸音のみだった。 大人しく言われるがままに手を伸ばすと、相手のたくましい腕に軽々と引っ張り上げられる。 路地裏からだいぶ離れた港付近。倉庫らしきものが立ち並ぶこの場所に出ると、ヨザックが「一旦休みましょう」と言ってきた。 休んだりしてる暇があるのかとも思ったが、実際身体は悲鳴をあげていた。いくら野球小僧でトレーニングに明け暮れていようとも、こんな危機的状況下で逃げるとなれば話は別だ。ペース配分なんて考える余裕もないし、追われているというプレッシャーまである。限界なんてすぐにきてしまった。 聡いこのお庭番のこと、きっとそのことに気づいての声かけだったのだろう。 倉庫の屋根に引き上げられると同時、有利はその場に倒れ込んだ。 「は〜、疲れたー」 チラ、と隣を見上げれば、ヨザックは息一つ乱さずに下界に鋭い視線を向けている。兵たちの様子を伺っているらしい。 育った環境も経験も違うとはいえ、なんたる差。 「ごめん、情けなくて。ヨザック一人だったら、さっさと逃げられたんだろうにな」 ちょっと自分が恥ずかしくなり、上体を起こしながら言った。 お庭番は、はっと我に返ったようにこちらを向く。鋭さが一瞬にして表情から消えた。 「な〜に仰ってるんですか。こっちこそ、グリ江のゴタゴタに巻き込んじゃって。ごめんなさいね、坊ちゃん」 「いいって。それは不可抗力ってやつだろ?おれもこっちに来たタイミングが悪くて……って、そういえばまだ聞いてなかった。何でグリ江ちゃんは追われてるわけ?」 「え゛?」 明らかに一瞬、その場の時が止まった。 「……言いにくいなら別にいいけど」 「あ〜、いや。言いにくいってほどじゃないですよ?ないんですけど、何というか……“情けない”? まぁ、これはある意味、オレのミスとも言いがたいんですけどねぇ…――」 いくら相手が坊ちゃんとはいえ仕事が仕事ですから、諜報の方の詳しい内容についてはお話できませんよ?、と前置きをしてから、ヨザックが事の経緯を話し出した。 曰く、この小国の領主の不穏な動きについて情報を集めるために、彼は領主の住む館で行われる舞踏会に参加したらしい。もちろん服装はお得意の女装で、胸も鳩胸。 しかし参加者たちに探りを入れてみたところで、国の重要機密がそうそう漏れているはずもなく。目立った収穫が得られず、直接領主本人に接触しようとした矢先、ターゲットが上層部と見られる男たちと隣室に入った。何か重要なことを話し合うはずだと、長年培った野生の勘(本人談)で察知した彼は、お庭番お得意の天井裏に忍び込み、彼らの話し合いを一部盗聴。一通り必要な事項が揃い、退散しようとした瞬間。 『どぐぅー』 バストアップに利用されたことへの不満……かどうかは誰にもわからないが、彼の胸で鳩が鳴いてしまったらしい。 お陰で感付かれてしまったお庭番は、国の重要機密を盗み聞きした者として追われる羽目になった、ということらしい。 「鳩がねぇ……。確かに情けないと言いたくなる気持ち、ちょっとわかる気がする」 「でしょ?こんなこと初めてでしたよ」 「元気のいい鳩だったんだろうなぁ。あ、その鳩は今どこにいるんだ?」 「あんまりにも腹が立ったんで、焼き鳥にして食べちまいました」 「あ、そうなんだぁ。って、えぇっ!?」 お庭番がまるで今日の天気の話でもするかのようにあっさりと言うものだから、思わず頷きかけてしまった。 「よ、ヨザック!ダメだろ!?それは動物虐待で……あ。でもおれたちも鶏肉 食べるか。どっかの国じゃ鳩も食用らしいし……あ〜、でもダメ!やっぱりダメ!!いくら何でも、失敗したからって食べちゃうのはあんまりだよ。鳥類愛護協会にも睨まれて…――」 有利は口を閉じた。上からクックッ、と笑いを噛み殺すような声が降ってきたからだ。 「すみません坊ちゃん、冗談です。鳩は、また突然鳴かれちゃ面倒なんでね。一羽はあみぐるみ閣下に白鳩便を、もう一羽は放しました」 「なんだよ〜、冗談? でもよかった。逃がしてあげたんだ?」 「ええ。キャッチ・アンド・リリース ってね」 「……あんた、コンラッドと釣りにでも行った?」 でなきゃ、彼がこんな言葉を知っているわけがない。名付け親も変わった言葉を広げるものだ。 まぁ、自分も他人のことは言えないが。 「未知との遭遇、ET、X−ファイル、ハーレイ・ジョエル・オスメント、うわっ、おれこの間 SFやホラー関連ばっかりグレタに教えた気が……」 「どうしました、坊ちゃん?何かの呪文で?」 「違う、違う。ちょっと今までの反省をし…――」 言葉は途中で途切れた。思わず相手の腕をとる。 「ヨザック!あんた怪我してんじゃん!?」 屋根の上は遮るものがなく、月の光がそのまま降り注ぐ。だから気づけた。お庭番の腕にぬるりと張り付く、鮮血に。 「あぁ、さっきやりあった時にちょっと」 「ちょっとじゃないだろ!こんなに血が出て」 それは、さっき自分を引っ張り上げてくれた右腕ではない。だが、その時だってこの左腕で彼自身の重さを支えていたはずだ。 「ギーゼラを……って、いるわけないよな。あっ!じゃあ おれの なんちゃって治癒力で…――」 「坊ちゃん、落ち着いて」 傷にかざした両手を、お庭番に片手だけであっさりと掴まれる。 「忘れたんすか?ここは人間の地ですよ。いざという時のためにも、魔力を消費しちゃいけない」 「だったら今がその“いざという時”だっ。大事な仲間が怪我してて、自分がちょっとは治してあげられるなら、力を使うべきだろ!?」 お庭番の手を外し、有利は少し睨むように言った。 ヨザックの言うことは分かる。ヴォルフや村田、コンラッドにだって散々言われてきた。でも、これが正直な思いだ。フォア・ザ・チーム。 月光が浮かびあがらせるお庭番の表情は、困ったような笑みだった。 「……有難うございます、坊ちゃん。その言葉だけで充分ですよ」 「でも!」 「それに、回復魔術は光を放つでしょう?使えば追っ手にオレたちがここにいること、気づかれちまいますよ?」 「……」 お庭番の言い分が的確で、言い返す言葉が見つからない。 普段は暢気で陽気なことばかり言うのに、ここぞという時はこれだ。 優秀すぎるのも時には厄介だよ、と いつだったか友人眼鏡君が言っていたことを思い出す。その意味が分かった気がした。 「じゃあせめて、手当てぐらいさせろよな」 言って、ズボンのポケットを探る。しかし生憎と目当てのハンカチはみつからず、学ランの下に着ているシャツの裾を破いた。 「ちょ、坊ちゃん!」 「いいって、これぐらい。一応野球やってる人間として、応急処置は身につけてるからさ、安心してよ」 草野球チームでは自分でも怪我人の手当てをするし、おまけに保健の授業でも応急処置は習う。 傷口をよく観察すれば、血はじわじわと出てはいるが噴き出すほどではなかった。幸い動脈ではないらしい。これならば直接圧迫するだけで何とかなりそうだ。 シャツの切れ端を傷口に押さえつけると、真っ白なそれはみるみるうちに暗い赤色に染まった。 「うわ……」 「すみません、坊ちゃん。あとは自分で…――」 「何言ってんだよ。あんたはオレを守ってくれて怪我したんだろ?だったらこれぐらいやらせてよ」 有利の言葉に、お庭番は諦めたように大きく一つ息を吐く。 「坊ちゃんには敵わないな」 「へへ。こっちの世界でおれに手当てされるなんて、滅多にないと思うぞ?貴重だな、ヨザック」 「ほんとですよ。坊ちゃん直々に手当てされるなんて、オレには畏れ多すぎちゃう」 「違うって。そういう意味じゃなくて、普段はギーゼラたちがいるから、ってこと」 シャツの切れ端を四、五枚変えると、だいぶ出血はおさまった。最後に、仕上げとして長めの切れ端で包帯のように巻きつける。 「よし、これでとりあえずはいいと思う。消毒できないのがちょっとイタいけど」 「いーえ、充分ですよ。有難うございます」 一、二度腕を曲げ伸ばしして、ヨザックが笑った。 「どう?巻き方きつくない?」 「ええ、全然。坊ちゃんたら、案外お上手で…――」 “案外”って、ちょっと失礼じゃない?そう言いかけたのだが、その前にお庭番の表情が変わった。 「ヨザック?」 「しっ!」 顔の前で人差し指を立てられる。既に下界へと向けられている彼の視線は、再び鋭さを取り戻していた。 つられて自分も目線を下ろせば、優に十は越える炎が揺らめいている。 「うわっ、近くまできちゃってる。しかも何か、さっきの人たちより重装備のような……」 「さっきの奴らは下っ端だったんでしょう。今度の集団は厄介みたいですね。動きが格段にいい」 ピンチな時ほどワクワクした様子を見せるお庭番だが、今回はあまりそんな風に見えない。有利は、それが月光と闇のコントラストのせいであることを願った。 「坊ちゃん、モルギフ……は、持ってるわけないか。じゃあ、これを」 「え?」 ヨザックが手にしていた剣を鞘ごと押し付けてくる。 「いいですか。ここから見えるあの港、船がいくつか停泊しているでしょう?その中に青い龍の旗印の船があるはずです。その船なら眞魔国にも向かいますから、坊ちゃんはそこを目指して下さい」 「ちょっ、ちょっと」 「うまく紛れ込んで下さいよ。それと、港に向かう途中にも兵がいるかもしれません。出くわした時は、その剣でちゃんと抵抗して下さい。相手を傷つけたくないなんて考えてる場合じゃありませんからね?坊ちゃんに何かあったら、国中の者が泣いて…――」 「ちょっと待てって、ヨザック!」 有利は思わずお庭番の服を掴んだ。 なぜだか、こうして彼を掴んでおかなければならない気がした。そうしなければ…――。 「あんたは?あんたはどうすんの!?」 ヨザックは軽く目を見開いたが、すぐに破顔し、やんわりと有利の手を服から外す。 「決まってるじゃないですか。あいつらを食い止めるんですよ。坊ちゃんはその間に…――」 「嫌だ」 「坊ちゃん」 「嫌だ!あんたを見捨てておれだけ逃げるなんて、そんなの絶対やだかんな!」 「坊ちゃん!」 両肩をお庭番に掴まれる。 顔は笑顔のまま。それでも掴んできた力は強かった。 ヨザックがゆるゆると首を振る。 「これは、坊ちゃんがオレを見捨てるとか、そんなことじゃないですよ。オレがそうしてくれって頼んでるんですから」 「でも!」 有利の言葉を遮るように、お庭番が立ち上がった。彼によって月光が遮られ、辺りが陰る。 「ヨザック……!」 不安げな声になってしまった。今度の兵は、さっきよりも手強いという。怪我をしているうえに武器まで手放してしまったら、いくら腕の立つ彼でも、危険なのではないか。 しかし見上げた先の相手は、少しおどけるように笑い、あっさりと言う。 「そんなに心配そうな顔しなくても大丈夫ですって。剣がなくても、坊ちゃんのことは命に代えて必ずお護りしますから」 そうじゃない。自分の身の安全なんて、そんなことを心配して言っているわけじゃないのに。 けれどそれを伝える前に、ヨザックはこちらに背を向けてしまう。 お庭番の足が屋根を蹴る。 瞬きする間に彼の姿は、王の視界から消えていた。 「ヨザック……」 独り残された王の両肩には、先程掴まれた時のお庭番の熱が、まだ微かに残っていた。 |
あとがき この(2)は、アクションは無いのに流血シーンはあるという、ある意味特殊な形態でした。ヨザのミスも、「ひっぱっておいてコレかい!?」と言いたくなるようなモノですみません、ほんと。(苦笑) 珍しくギュンター閣下を真面目に仕上げたところ、ヴォルフラムがちょっとお馬鹿っぽくなってしまいました。なぜ……? ちなみに有利がグレタに教えたという、SF&ホラー関連用語は、「天(マ)」と「いつか(マ)」でのグレタ・アニシナ・グウェンの城居残り組みの会話からネタを拝借しています。結構、有利によって地球の用語が広がっているようですね。(笑) |